「月の女」-22
【エピローグ 東京で】
十二月二十八日の朝成田空港に着いたボクは荷物をいったんアパートまで持って帰り、少し仮眠をとってから昼過ぎに会社に行った。
会社にとってもその日が御用納めの日だった。
米倉部長にタイでの出張の簡単な報告をするとき、ボクの心の中は複雑な気持ちだったが、何とか表面上はうまく取り繕う事が出来た。
米倉部長は何も関係がないような顔をして
「ご苦労さん」 と一言言っただけだった。
〈畜生め!〉 とボクは心の中で叫んだが、その感情を表面に出すことだけは何とか抑えることが出来た。
その夜、課単位での忘年会があったが、ボクは出張の疲れを理由に断り、アパートに帰って寝た。
ボクは本当に疲れていた。
三十日の新幹線でボクは東北地方にある県庁のある都市の実家に帰り、正月の三ヶ日を両親と供に過ごし、又東京に帰ってきた。
アパートに帰ってパソコンを開くと河島からメールが入っていた。そこには懐かしいタイの匂いがあった。
河島は年末からノイに誘われて、ノイの田舎のロイエットに行ったと書かれていた。
すごい田舎で、人々はかなり貧しい生活をしているみたいだが、その割には明るくて人懐っこくて大変な歓迎を受けたと書かれてあった。
そしてその田舎でドゥアンとその娘に会ったとも記されていた。
ドゥアンは娘に会えて元気そうだったが、お前と会えない寂しさを俺に切々と訴えていたと書かれていた。
ボクはそれを読み、今すぐにでもバンコクに行きたい強い誘惑に駆られた。
それでいながら一方で、ボクはその日から知り合いをあちこちあたって弘美の行き先を探し始めていた。
しかし誰もそれは知らないようだった。田舎に帰ったかもしれないとボクは思った。
ボクは弘美が残していった田舎からの手紙とかが何処かにないか部屋中を探してみたが、彼女のものは何一つ残っていなかった。
改めて彼女のことを考えてみると、彼女はこの広い東京で心の許せる友達らしい友達もいなかったし、親戚もいなかったようだ。
本当に身ひとつで東京に出てきたのだと言うことがわかり、余計不憫に思われた。
そして彼女がどれほどボクのことを頼りにしてくれていたか、ボクと別れる決心をした時どれほど悩んだかもなんとなく推測できた。
恐らくあの時弘美は心のどこかにぽっかりと隙間が出来ていたのだろう。
仕事が忙しくてボクがあの頃弘美の相手をあまりしてやれなかったのも原因だったのかもしれない。
この東京と言う街はこんなにいっぱい人がいるくせに、ボクら地方から出てきた人間にとっては、魅力的な街であると同時に、非常に孤独な街でもある。
人ごみに行けば行くほどボクはそれを余計に感じる時もある。
又この街はいろんな情報が飛び交う街でもある。
自分が余程しっかりしていないとその激流に流されてしまいそうな街なのだ。
そう言う街の中で、弘美はあの時何かをきっかけにして、ちょっとした心の隙間ができたのかもしれない。
その心の隙間から彼女はたった一度過ちを犯してしまったのだ。
しかし弘美はそのことにより苦しめられた。そして考えに考えた末、ボクと別れる決心をしたのだ。
恐らくボクと一緒に暮らしている限りあの過ちを忘れる事が出来ないと思ったのだろう。
その苦しみから逃れる為に、弘美は自ら決心をしてその道を選んだのだ。だからボクから離れていったのだ。
ボクはその決心を思うと、中途半端に彼女を探すことはやはり止めたほうがいいのではないかと判断した。
東京はボクには寒かった。
夏からいきなり冬になった寒さに、弘美もドゥアンもいない寂しさが加わり、より一層ボクの心を寒くした。
それでもボクは会社に戻り仕事に打ち込んだ。誰よりも遅くまで仕事をした。出来るだけ二人のことを忘れようとするかのように・・・。
しかしそれから誰も居ないマンションに帰り、独りになるとボクはどうしても二人のことを考えてしまった。特にドゥアンのことが忘れられなかった。
仕事を終えて駅からマンションまで帰る途中、夜道をとぼとぼと歩きながらなにげなく夜空を見上げた時、ぼんやりとした空の中でぽっかりと浮かんでいる月を見て、ボクはドゥアンのことを思い出した。
そしてドゥアンとともに眺めたサメット島の事も同時に思い出した。
僕はその時、ドゥアンがボクに静かに語りかけてくれているように感じたし、またボクのことを遠くからしっかりと見つめてくれているような気もした。
今ごろドゥアンはどうしているのだろう、とボクはそのたびにドゥアンのことを考えた。
相変わらず誰かにコーラを強請っているのだろうか。そしてそれだけでは田舎にも送金ができないので、たまには誰かにペイバーされて、その男とホテルに行ったりしているのだろうか、と考えることは、ボクには身がきられるように絶え切れないほど辛いことだった。
それから一ヶ月くらいたったときにまた河島からメールが来た。
その後元気にしていますか。
こちらは相変わらずバタバタとしています。
君が帰ったあと暫くして、
いったん決まったプランが又変更になり、
その修正で今は大変です。
君にもう一度バンコクに来てもらえないかと、
これから部長に交渉しようと思っていますが
その前に君の都合と気持ちを知りたいので、
部長に交渉する前に先にメールしました。
予算の都合もあり、
依頼どおりの結果になるかどうかは保障できないけれど、
君の返事次第で部長に依頼しようと思っています。
出来れば明日中に返事ください。
勿論ドゥアンも君の来タイを待っています。
メールはそう言う内容だった。
ボクはそのメールを読んで河島がボクをバンコクに呼び戻す為に、いろいろ工作しようとしてくれているのを感じた。
そしてそのバックにはドゥアンの存在があることも強く感じた。
ボクは一晩考えた末、是非バンコクに呼んでほしいという返事のメールを河島に送った。
そして今度向こうに行った時には、今の仕事をこなしながらも、向こうで一生できるような仕事を探そうと強く思った。(完)


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