「月の女」-2
【第一章 怪しい照明の下で】
ピンク・フロイドの《アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール》が大音響で鳴り響いている薄暗いゴーゴーバーのステージで、天井で廻るミラーボールの淡い光を体に受けながら、五、六人の水着姿の女が身をくねらせて踊っている。
ボクはバンコクのスクムビット通りにある、ソイ・カウボーイという街のゴーゴーバーの片隅で、いつものようにジムビーム・ナームケン(ジムビームのロック)を手にしながら、女たちの踊りを眺めている。
ハイネッケンの小瓶を一本飲んだ後はずっとこのジムビーム・ナームケンだ。
もう四杯目になる。酔いで頭が少し朦朧としてきている。こう言う状態がボクはとても好きだ。もうすっかり仕事のことなんかは頭の中から消え去っている。
ボクの横にはもう一人、会社の同僚の河島慎二が座っている。
彼とボクとは同期入社でタイに来たのは彼のほうが七ヶ月早かった。彼が設計の担当をしているある建築のプロジェクトでボクは彼の応援のためにやってきたのだ。
ボクがタイに来たのは二ヶ月前。後二ヶ月くらいはバンコクにいることになるだろう。
ボクと河島は最近この店によく来る。といってもボクは今日が三回目で、もともとは河島が開拓した店だ。
彼は事務所が比較的近いことと、この店の生バンドの演奏が気に入ってよく来るようになったらしい。
このバンドは六、七十年代の、ローリング・ストーンズ、イーグルス、ピンク・フロイド、クラプトンなどを演奏する。
ボクも河島もまだ三十二歳だから彼らが活躍していた頃は生まれていたかどうかという頃だが、ボクの場合は両親がボクの小さい頃によくこういう音楽をレコードで聴いていたので、いつのまにか影響されて好きになってしまったのだ。
それは河島も同じらしい。
そういえば演奏しているバンドの連中達もボクらと同世代のようだ。
ボクが初めて河島に連れられてこの店に来たとき、まずゴーゴーバーで生演奏をやる店自体が珍しかったのと、しかも古いロックをやるというのに感動して、ついつい飲みすぎてしまったことがある。
客層は殆どがファラン(白人)のおっさんだが、彼らもまたひどくこの演奏に乗っている様子だった。
(それにしてもファランというのはどうしてこう、そろいもそろってノリがいいのだろう)。
それ以来ゴーゴーバーに行くならこの店と決めてしまった。女たちがやたらにコーラを要求してこないのも、日本人が少ないのもボクらには気に入っていた。
ステージの上では相変わらず女たちがくねくねと腰をくねらせて踊っている。見るからにダンスが好きで、ステンレスの支柱を支えにして激しく体を動かしている女もいれば、いかにもやる気なさそうに事務的に体を動かしているだけの女もいる。
その中にボクにはさっきから気になっている女が一人いた。
その女は他の女と同じように褐色の肌をしていて、ストレートの黒髪を後ろでくくり、背は少し低いがバランスの取れたスタイルをしている。
ひざの骨が出ていなく足首がきゅっと引き締まっているのもボクの好みにぴったりだ。
水着の露出度は他の女と比べると低く、むしろ野暮ったいと感じられるほど大きく、見た目は決してセクシーではなかったが、後ろから見るとヒップは立体的にキュッと突き出ていて形がいいのは見て取れた。
そしてその動きからみて、まだあまりこういう仕事には馴れてないなという感じだった。
始めてみる顔なので、最近この店に入った娘なのかもしれない。
ボクはさっきからじっとその娘に視線を送り続けている。
暗いのでよく分らないが、その娘もボクの視線にはさっきから気がついている風だったが、その娘はずっと無表情でボクの視線に対してもこれと言った反応は示さない。
こういう仕事に少し馴れた女なら、視線に気づくと何らかの合図を送ってきたりするものなのだが彼女はその気配も無い。
もしかしたらボクは彼女には嫌いなタイプなのかな、とも考えた。
女によってはファランしか相手にしない女もいて、日本人がどんなに視線を投げかけても無視するのだ。
だが彼女は何故かそういう風にも見えない。ボクにはただ彼女は不慣れなことに戸惑っているだけのようにしか見えないのだ。
取り敢えずあの娘が踊り終われば一度横に呼んで、コーラでも奢って彼女の反応をみてやろうと思った。酒の酔いもその気持ちを後押しした。
河島の横にはもうすでに女が付いている。名前はノイというらしい。
彼は以前からその娘を気に入っているみたいで、この店によく来るのも、ひとつにはその娘が目当てというのもあるようだ。
今日も入ってくるなりその女は彼の姿を見つけ、すぐ彼の横に座った。そしていまコーラをもらっている。
別にコーラでなく酒でもいいのだが、酒を飲むとダンスが辛くなるためかコーラを頼む女が多い。
この街ではコーラを頼むとそのうちのいくらかが彼女たちの取り分としてもらえるみたいだ。
一日のうちでお客から何杯コーラを奢ってもらえるのかボクは知らないが、安いギャラで働いている彼女達にはそういうことも貴重な収入源のひとつになるのだろう。
だから店によってはがめつく「コーラ、コーラ」とせびりに来る女も多いのだが、この店は店の方針なのか、女達の気質がそうなのか良くわからないが、顔なじみの客にしか行かないみたいだ。
だからかどうかは分らないが、ボク達みたいに新しい客には誰もせびりに来ないのでわずらわしくなくていいのだが、一方で逆にあまりにも放っておかれると少し寂しい気もする。
そう言う意味では客の心もちょっと複雑で身勝手なのかもしれない。
この店では女たちは一曲ごとにひとつずつ位置をずらして行き、ステージの上を一周すると新しい女に交代するというシステムになっている。
ボクはさっきから気になっている女の踊りが終わりそうになったとき、制服組のおばさんを呼び、あの六十四番の娘を呼んでくれと勇気を振り絞って頼んだ。
六十四番というのがその娘につけられた番号で、ブーツにその番号は付けられていた。
暫くして女は水着の上に白いシルクの薄いシャツを羽織ってボクの席の前にやってきた。
そして真剣なまなざしでボクを見詰めながら、胸の前で両手を合わせて軽くお辞儀(タイ語でワイという)をしながら「サワディ・カー」と挨拶した。
〈まつげの長い娘だな〉と言うのが女を近くで見たときのボクの最初の印象だった。
ボクは自分の席の横に座るように手招きした。女は素直にボクの指示に従いボクの横に座った。
「水野、お前この娘を指名したのか」
女がボクの横に座ったのを見て、河島がそう問いかけてきた。
「ああ、そうだよ。どう、この娘可愛いだろ」
「まあな、お前の好きそうなタイプだ。でもまだ子供じゃないの」
「そうかなあ、そんな気もするけどまあ聞いて見るよ」
ボクは自分から指名した以上、まず自分から話しかけるのが礼儀だろうと思い
「パサ・アンキット・ダイマイ?」 とまず英語が出来るかどうかをたずねた。
アンキットと言うのはタイ語で英語のことだ。
「メダーイ・カー」 女はできないと言う。
ボクは仕方がないので、わずかに話せるタイ語を駆使して喋ることにした。
「チュウ・アライ・クラップ」 ボクはまず彼女の名前を尋ねた。
「ドゥアン・カー」 女はそう発音したのだがボクにはグアンときこえた。
「グアン?」 ボクがそう聞き返すと
「メチャーイ!ドゥアン・カー」 女はもう一度ゆっくり言い直した。
「ドゥアン?」 「チャーイ・カー」
どうやらボクの発音もなんとか合ったみたいだ。今度は自分の名前を言う番だ。
「ポム、ユタカ」 ボクは自分の顔を指差して自分の名前を言った。
「ユカタ?」 ドゥアンはそう言うので
「メチャーイ、ユタカ」 今度はボクが女の言葉を修正する番だ。
「ユ ・ タ ・ カ?」 女はゆっくりとそう発音した。
「チャーイ」 ボクがそう言うと女はゆっくりと「ユ・タ・カ、ユ・タ・カ、ユ・タ・カ」と何度も繰り
返した。
そしてお互いに笑いあった。笑うときれいに並んだ白い歯がとてもチャーミングだった。
ボク達の会話はそんな風にして始まった。
ボクのタイ語のボキャブラリーはほんのわずかで限られているので、喋れることも限られていた。
それでも彼女の歳は二十歳だというのは分った。しかしどう見てもそうは見えなかった。
河島に聞いても
「それは嘘だろう。せいぜい十八か、もしかしたら十六くらいかもしれないぜ。最近は取締りがうるさいので、この街の娘達は歳に関しては結構嘘つくからなあ」
「そうだよな、どう見たって二十歳には見えないよな」
ボクもそう思ったのでそんな風に答え、でも取り敢えず歳の話には逆らわずにいた。
ボク達はその後話せる言葉も少ないので、一応のありきたりの挨拶会話を済ませた後は殆んど黙ってステージの上のダンスを見ていた。ドゥアンもおとなしくボクの横に座っていた。
そして三、四十分後くらいに、また踊らなければいけないというドゥアンの言葉をきっかけにしてその日は帰ることにした。
帰る前にボクは横に座ってくれたお礼として、またこの次来た時憶えていてもらうために百バーツ札を一枚チップとして渡した。
ドゥアンはまたワイのポーズでお礼を言った。(つづく)


いよいよ始まりましたね。
今後も期待しています。
投稿 shinji kawashima | 2008年3月 6日 (木) 10時55分