「月の女」-10
【第九章 微妙な関係】
アパートに帰ってからボクはベッドに横になりながら、もう一度ノイの事を考えてみた。
あれは一体どういうことなのだ。田舎に帰ると言ったのはやっぱり嘘だったんだ。勿論河島はそんなこと知らないだろうが、もし知ったらどうするだろう。
河島とノイにしろ、ボクとドゥアンにしろ、所詮はお金で繋がった関係であり、だから彼女達が誰かボクら以外の人間に買われてしまったとしても、ボクらは何も文句を言える立場ではないことは、ボクも河島も十分承知しているつもりだ。
それは充分分かった上で付き合っているのだから。
だから今回ノイが河島以外の男と一緒にいたからといって、考えてみれば何の不思議も無い話なのかもしれない。
彼女たちにしてみればそれが仕事なのだから。でもそれにしてもあんな嘘をつく必要は無いではないか。それだったらそういえばいい話じゃないか、とも思う。
しかしもし本当のことを河島に言ったら、彼はどうするだろうか。
もしかしたらあの白人は、河島がノイと出会うずっと前からノイを知っていて、ある関係ができていたのかもしれない。
白人はいったん自分の国に帰っていたのだが、何かの用事でまたバンコクに来てノイと再会し、何日間か一緒にプーケットにでも遊びに行っていたのかもしれない。
それを河島に正直に言ってしまうと彼を傷つけることになるから、ノイとしてはあんな嘘をつかざるを得なかったのもしれない。そう考えるとノイの嘘も許せるような気がしてきた。
ボクとドゥアンの関係ももしかしたら、そういった微妙な嘘の上で始めて成り立っているものなのかもしれない。
いやもっと言えば、そもそも恋愛なんて全て、所詮そういうものなのかもしれない。
まして我々の関係は、いくら親しくなっても商売の上で付き合っているのだし、まして他人である以上、相手には踏み込まれたくない部分というのはあるものだ。
またたとえ本当の事が見えそうになっていても、あえて見ないようにした方がいい場合だってあるはずだ。
それはこういう関係である事を初めからわかって付き合っている以上仕方のないことであるし、それ以上を望む事は野暮と言うものかもしれない。
ボクと弘美の関係が崩れたのも、ボクが弘美の隠れた部分を憶測し過ぎたのがある意味では原因だったのだ。
今年の二月初旬のある寒い日、仕事で出かけていった彼女が夜中遅く帰ってきた。
ボクがその時たまたまマンションの部屋の窓際に立って外を見ていたら、玄関から十メートルくらい離れたところでタクシーが止まり、その中から弘美が出てきたのだ。
そのままタクシーが行ってしまえば、ボクはそのタクシーに一緒に乗っていた男の顔などを見ることはなかっただろう。
ところが弘美はタクシーの中に何かを忘れたのだろう。弘美が玄関に入る寸前に一緒に乗っていた男がそれに気がついたのか、マフラーらしきものを手に持ってタクシーから出てきたのだ。
その男の顔を見たとき、ボクは顔がそれこそ凍りつきそうになった。その男はボクの上司の設計部長である米倉部長だったからだ。
米倉部長は四十代後半くらいで、いかにも設計部長という感じの、ボクら男から見ても格好のいい紳士だ。
いつもきちっとしたスーツを身に付け、喋り方にも品があり、そのくせ冗談も面白く部下の誰からも好かれていた。特に女子社員からは人気抜群だった。
ボクも同じ大学の先輩後輩と言う関係になるため、ほかの社員よりも可愛がってもらっている感覚があった。
よく酒にも誘ってもらったし、ボク自身もほかの人には言えない悩みなどを相談したりもした。
考えてみれば弘美を最初に紹介してもらったのも米倉部長だった。そういう意味では弘美と米倉部長が親しくしていても何の不思議もないと言えば言える。
しかしまさかあの二人が男女の関係にあるなどとは、今の今まで想像だにしていなかった。
いやあの二人が男女の関係にあるとはまだ決して決まったわけではないのだが・・・。
それでもボクは大きなショックを受けた。
ボクはその夜弘美を軽く追及した。と言っても直接米倉部長の名前を出して追求したわけではない。
こんなに遅くまでどうしてたの、と遠回しに聞いてみただけだ。
すると弘美は、今日はたまたま仕事が終わった後取引先の人何人かと一緒に食事に誘われ、そのあと少しバーでお酒も飲んだと言うだけだった。
その言葉の中に米倉部長の名前が出ていればボクも少しは楽だったかもしれない。
しかし彼女の口からその名前が出てこなかった分、ボクは弘美に対して余計に不信感を募らせることになってしまった。
その夜からボクは弘美が米倉部長に抱かれている妄想に苦しめられるようになった。
特に弘美が遅く帰ってくる時などは(今頃はひょっとして・・・)という思いに夜中苦しめられた。それは誰にもいえない苦しみだった。
その日を境にしてボクと弘美の関係はギクシャクし始めた。表面上はそんなに変わらなかったが、二人の交わす言葉数は以前と比べると極端に少なくなったし、セックスをすることも少なくなった。
ボクはマンションに帰る時間が遅くなった。仕事が早く終わった時でも、何故かマンションに素直に帰る気がしなくなり、友達を誘っては酒を飲みに行く回数が増えていった。
そして夜遅くに酔っ払ってマンションに帰ることが多くなった。ひどいときには明け方になることもあった。
弘美はボクのこの急な変貌振りを黙ってみていたわけではない。
「一体どうしたの、この頃のあなた少し変よ。何かあったの」
何回かそう問いかけてきた。しかしボクは曖昧な返事をするだけでごまかしてきた。
米倉部長のことを問いただす勇気がボクには無かった。それはあまりにも女々しい考えのような気がしたからだ。
そんな状態が半年以上続いたある日、タイに行く話が出てきたのだ。その話を持ってきたのも米倉部長だった。
ボクはちょうどいい機会だと思ってその話に乗った。もうこれ以上弘美と一緒に暮らす生活には耐えられない心理状態になっていたので、逃げるようにしてこの国にやってきたのだ。
タイに来てからもボクは一週間に一度くらいは弘美に電話をした。弘美は元気にしてはいたが、やっぱり昔の明るさは無くなっていた。
離れて暮らしていると弘美が愛しいと思うこともあった。本当に彼女と米倉部長とは関係ないのかもしれない、と思うこともあった。
それに自分だってドゥアンと付き合っているではないか。
百歩譲って米倉部長と関係があったとしても、自分はよくて彼女には許せないと言うのはあまりにも自分勝手過ぎないか、と言う思いもあった。
しかしどうしても優しい言葉を彼女にかけてやることはできなかった。(つづく)


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投稿 magazinn55 | 2008年3月14日 (金) 13時21分