「イミテーション・ラブ」-36
第六章 結末
1 スクムビットの休日
哲也はスクムビットのエムポリアムの向かいにある《ピーターパン》というオープン・カフェで、アメリカン・コーヒーを飲んでいた。
コーヒーを飲みながら煙草がすえるところというのは、こういうオープンな所しかないので、どうしてもこういうところについつい入ってしまう。
またここの床は通りから少し高くなっているので、通りを歩く人をちょっと上から眺めながらぼんやりしていられるというのも、哲也は結構気に入っていた。
だからスクムビットに出てくると必ず一度はここで一服することにしている。
スクムビット通りをはさんで向こう側には公園もあり、そこの樹木が見えるのもなんとなく心が落ち着く。
七月最後の日曜日で仕事も休みだ。後一ヶ月足らずで哲也のタイでの生活も終わるはずだ。
哲也はアパートから直接タクシーでこの店に来た。
昨夜は夜中の十一時まで仕事をしていたので、週末にもかかわらず《ピカソ》には行かず、まっすぐにアパートに帰って寝た。
だからオーにも逢っていない。しかしそのオーがもうそろそろ現れるはずだ。
哲也はタバコを吸いながら道行く人々の姿を眺めるともなく眺めていた。
この通りには日本人の姿も多い。近くに日本人が住んでいるアパートが多いせいだろう。子供づれの若い主婦、中年の男など。
またファラン(白人)の姿も数多く見かける。ファランは老夫婦が多いように思える。
そして勿論タイ人。中でも腰の部分が短くてお尻の割れ目まで見えそうなパンツを穿いた若い女性が多い。
しかし色が黒いためか哲也にはそれほどセクシーには感じられない。
哲也はさっきからオーのことを考えていた。
これから先オーとどういう風に付き合っていけばいいのだろうか、と考えていた。
自分が日本に帰ってしまったら、もうオーには援助してあげられなくなる。そうするとオーはたちまち困るに違いない。
自分の代わりの男でもすぐ見つけてくれればいいが、オーの性格ではそんなに簡単ではなさそうだ。そうなるとあいつはどうするつもりだろう。
そんなこと考えなくてもあいつはあいつなりにどうやってでも生きていくのかもしれないし、現に今まで生きてきたわけだから、取り越し苦労なのかもしれない。
だがどうしてもそのあたりの事が気になってしまう。
とにかく日本に帰るときにはいくらかのまとまったお金くらいは置いていってやろうと思った。
哲也がそんなことを考えているうちに、急に外の様子がおかしくなってきた。
さっきまできれいに晴れていた空が急に暗くなり、おまけに風まで出てきた。
これはスコールかなと思ったら大粒の雨がパラパラと降り出し、あっという間にそれが大雨にかわった。
雨は道にしぶきが上がるほど強くなった。道を歩いていた人たちは頭を抱えた状態で屋根のある所を求めて走り始めた。
哲也がいるカフェにも何人かの男女が避難してきて入り口に立ち始めた。この店はオープンなので彼らには寄り付きやすいのだ。
そのために一瞬のうちに哲也の席から通りは見えなくなった。
オーはまだ来ない。どこかで立ち往生しているのかもしれない。人々の壁で風通しが悪くなった店内はむっとしてきた。
哲也もどこかに移動したくなってきたが、この雨では移動すら出来ない。
哲也は携帯電話でオーに電話をした。呼び出し音はするがオーは出ない。哲也は仕方なく電話を切りまた煙草に火をつけた。
今度は日本にいる家族のことを考える。皆どうしているのだろう。
哲也は二週間に一度くらいのペースで家には電話をするようにしている。殆どは久美が出るがたまに娘が出ることもある。息子が出る事は殆どない。
息子は高い学費を親に払ってもらっていることに後ろめたさを感じているのか、せめて自分の小遣いや交通費位は自分で稼ごうと思っているらしい。
だからアルバイトに精を出しているみたいで、家にいる事は殆どないと久美は言っていた。
娘の由紀は彼氏が出来て毎日楽しそうに青春を満喫しているようだ。
久美は最近腰を痛めたようで仕事に行くのが辛いと言っていた。
仕事など止めればいいと哲也は言うのだが、まだまだ止めるわけにはいかないといって聞かない。
後一ヵ月もすればそんな家族にも会える。早く会いたいと哲也は思う。しかし一方ではオーと逢えなくなる寂しさもある。
この二つの相反する感情の中で哲也の心は揺れ動いていた。
それにしてもオーはどうしたのだろう。約束の時間をもう十五分くらいオーバーしている。
時間には几帳面なオーにしては珍しいなと哲也は思った。
その時オーから電話が入った。
「もしもしテツヤ、ごめんなさい。いまビョウインです。アリサがアクシデントしました」
「えっ?どうしたの」
「モーター・サイでたおれて少しケガしました。デモはだいじょうぶです。しんぱいないです」
「そう?本当に大丈夫か?」
「だいじょうぶです。デモはきょうはそちらにいけません。ごめんなさい」
「分かった。それは大丈夫だ。気にしなくていい。それよりもアリサの傍にいてやったほうがいいよ」
「ありがとう。じゃあ」 オーはそう言って電話を切った。
哲也は少しアリサの事が心配になったが、大したケガではないと言うオーの言葉を信じてあまり心配しないでおこうと思った。
さてそうなるとこれから何をすればいいのだろう。オーと二人なら映画でも見に行こうと思っていたが、一人では行く気にもならない。
夜にはまだまだ早いし、だったらマッサージにでも行くしか仕様がない。雨がやめばポーマッサージにでも久し振りに行ってみようと思った。
「テツヤ」
突然自分の名を呼ぶ女の声に驚いて上を向くと、そこに見覚えのある若い女が一人立っていた。(つづく)


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