「イミテーション・ラブ」-39
4 五番街のマリー
日本が盆まえの八月十日、全ての図面が出来上がった。
何回かに分けて提出した図面の最終のセットを明日提出すれば、後は客側のチェックがあり、それを直してしまえばこのプロジェクトの仕事は全て終わりだ。
その客側のチェックが戻ってくるのが一週間後なので、哲也も柴田も暫くの間暇になる。取りあえず明日は二人とも休むことにした。
出来上がった図面は佐野が客先に届けることになっていたからだ。
哲也はその夜柴田を誘って《ピカソ》に行くことにした。勿論その前に居酒屋で腹ごしらえをした後でだが。
だから《ピカソ》に行ったのは十時少し前だった。
いつものようにチーママとマネージャーがドアの前で迎えてくれた。
中に入ってソファに座っているとすぐにオーとゲェがやってきた。
勿論店に来る前に今からいくと言う電話は入れておいたので、二人とも他の客には付かないで空けておいてくれたのだ。
二人の女はいつものようにワイをして男たちに挨拶をした。
客は最近にしては珍しく多かった。恐らく日本が盆休みに入るので、早い客はその前の土曜日くらいから連休を取ってバンコクに遊びに来ているのだろう。
そういう客が今日は多いのかもしれない。だからあちこちでホステス達の笑う黄色い声が聞こえてくる。
哲也がオーに逢うのは月初めの日曜日以来だから約十日振りだ。久し振りに逢うとやはり嬉しくなる。
「おひさしぶりですねえ。げんきでしたか」
オーもお絞りを渡しながらにこやかに聞いてきた。
「ああ元気、元気。仕事も今日でひと段落したから、今日は思いっきり飲むぞーッ。ねえ、柴田君」
哲也は柴田にもそう言った。
「そうですね。どんどん行きましょう」
「おー、いいですねえ。どんどんのんでください。そしてどんどんおカネをつかってください」
オーがそう言ったので四人で大笑いした。
前のステージではいつものフィリピンバンドのトリオをバックに、中年の女性歌手がビートルズの「サムシング」をジャズっぽく歌っている。
その曲を歌い終わると、客のリクエストがあり、その男がステージに出てきて歌い始めた。
曲は「思い出のサンフランシスコ」という古い曲だが、それを英語で歌い始めた。
その客についていたホステスが一緒に出てきて、客の飲んでいたウイスキーを持ってステージの下で立って客の方を向いてじっと待っている。
この店には色んな外国を転々として来て、最後にバンコクに流れ着いたような駐在員が何人かいるようで、そう言う客は英語の歌を歌うことが多い。
その男もその部類なのだろう。この店で何回か見たことのある顔だ。
英語にはかなり馴れたような感じで、歳は六十歳少し前の感じだ。歌はなかなか上手くはあるが、哲也は何かきざな感じがして、いまいちそう言う男は好きになれない。
勿論敵意を感じるほどではないが。
その歌を聞きながらオーが
「テツヤもナニかうたいますか」 と聞いてくるので
「歌おうかな。他人の歌を聞いていても面白くないからな。そうだオーの歌を歌うか?」
「ゴバンガイのマリーですか。いいですねー。いっしょにうたいますか?」
「ああ、一緒に歌おう」
「じゃあチョッと待ってください」
オーはソファーから立ち上がり、ステージの方に行き、女性歌手にリクエストをして戻ってきた。
柴田とゲェは向こう側の席で二人寄り添って何やら親しげに喋っている。
英語の歌を歌う男が二曲目に「マイウェイ」を歌い始めたので、なかなか哲也の番が廻ってこない。
暫くして終わったのでいよいよ出番かなと思って立ち上がりかけた。
しかしまだ次の男の予約があったようで、女性歌手は別の名前を呼んで、その男がするするとステージの方へ行ったので、また待たされることになり、ずっこけそうな振りをした。
その様子を見てオーは口を押さえてクスクスと笑っていた。哲也は仕方なくウイスキーをグイッと飲んだ。
間をおかずオーが爪楊枝でスイカを小さなボール状にしたものをひとつつまんで哲也の口元に持ってきたので、それを食べた。
次の男は純粋の歌謡曲で「居酒屋」を歌い始めた。
仕方がないので、哲也はステージの方を見ながらオーの露出した背中を撫ぜていた。
相変わらずオーの背中の感触がいい。オーは背筋をきちっと伸ばして、哲也にされるがままに任せていた。
やっと前の男の歌が終わり、女性歌手が今度は哲也の名前を呼んだので、哲也とオーはそろって立って、ステージに向かった。
そして二人そろってステージに上がった。二人でこの歌を歌うのは今回バンコクに来てからこれで三回目だ。
ピアノの演奏が始まったら柴田とゲェが激しく拍手を送ってきた。
哲也は譜面台に置かれた歌詞カードを見ながら歌い始めた。オーも柴田の横に寄り添って一緒に歌った。
五番街に行ったならばマリーの家に行き
どんな暮らししているのか見てきて欲しい
歌はそんな風にして始まる。三十年くらい昔ペドロ&カプリシャスというグループが歌って流行った曲だ。
哲也はまだ中学生か高校生くらいだったかもしれない。オーは歌詞を全て憶えているのでカードを見る必要はない。もっとも見ても漢字は読めないのだが。
三番まで二人は腕を組んだままで歌い終わった。オーは楽しそうだった。
また柴田とゲェが拍手をしてくれた。女性歌手もお愛想に拍手してくれた。しかしほかの客は勿論知らん顔だ。
「山口さん、渋い曲をうたいますねえ」
席に戻ったら柴田がそんな風に言ってきた。
「良い歌だろ?こんな歌知ってるかい?」
「勿論知ってますよ。有名な歌ですから」
「ああそうなの?君たちの世代でも知ってるんだ。実はね、この歌はオーの歌なんだよ」
「ええっ、どうしてですか?」
「オーの本名はマリーって言うんだよ、ねえ」
哲也は相槌を求めるようにオーの方を向いた。
「そうです。わたしのホントウのナマエはマリーです」
オーはいかにも嬉しそうな表情をした。
「そうなんだ。それは初めて聞いたな。だからオーちゃんもこの歌知ってるんだ。なるほどね」
「まあそれほど感心するほどのことでもないんだけどね」
「ははは、それはそうなんですけど」
「ところで君も一曲くらい歌ったらどう?」
「勘弁してくださいよ。ボクはひどい音痴なんですから。ボクなんかが歌ったらお客さん皆帰っちゃいますよ」
「そうかい、それも面白いじゃない。そんな事言われると余計に聞きたくなっちゃうな」
「ほんとう、聞きたいですね」 オーも横から助勢する。
「本当に駄目ですから。こればっかりは本当に駄目なんですから」
柴田は真剣な顔で、後ずさりするようにソファの奥に身を引きながら右手を左右に激しく振った。
その様子がおかしくて他の三人は大笑いした。(つづく)


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