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2008年5月

2008年5月31日 (土)

「あの白く乾いた季節」-17

五 学園祭の始まる日

 十一月も終わりに近づいたある日、私はいつものように午後の二時頃ベッドから身を起こし、タバコを吸いながらFMラジオの音楽にボーッと耳を傾けていた。

 音楽の合間に時々ニュースが入るのはいつものことなのだが、その日のニュースは私に異様な驚きを与えた。

 ニュースは三島由紀夫の割腹事件を伝えていたのだ。アナウンサーの興奮した口調そのものがその事件の異様さを象徴していた。

 私は一瞬自分の耳を疑ったが、何度聴きなおしてもやっぱりそうだった。

 あの三島由紀夫が死んだ。それもこんな時代に切腹で。

 この作家は私の好きな作家の一人だったので、その事件は私には大きなショックだった。

 だが冷静になってよく考えてみて、最近の彼の週刊誌なんかで書いたり発言したりしていた内容などを思い起こせば、死が近づいていることを予感させるような言葉はたくさんあった。

 しかしまさか、と言うのがその時の正直な気持ちだった。

 その日は大学の学園祭が始まる日で、私はメイといつもの喫茶店で四時半に待ち合わせをしていた。四時半きっちりにその店に行ってみるとメイは先に来ていた。

「ねえ、三島由紀夫が割腹自殺したの知ってる?」

 顔を合わすなりメイの方からそう言ってきた。

「そうらしいね。俺もさっきラジオのニュースで聴いたばっかりなんだけど、びっくりしたよ」

「そうそう、大学では今その話で持ちきりよ」

「そうだろうね。学園祭なんかぶっ飛んでしまうようなニュースだ」

「確かにそうね」

 私とメイはそれからひとしきり三島由紀夫についていろんな意見を交わしたが、彼女の方はそれほどこの作家についての知識はなかったみたいで、もっぱら私の独壇場に終ってしまった。

 その後五時に山本と京子が来ることになっていたのでそれを待って、私達は四人でキャンパスの方に向かった。

 キャンパスでは学園祭のいろんな催しをやっていた。

 教室では文連に属するいろんな文化サークルが模擬店を出していたし、広場ではロックコンサートをやっていた。我々は模擬店でたこ焼きや焼きソバなどで腹ごしらえをした後、八号館の裏の空き地で六時から開催される「赤テント」の前衛芝居を見ることにした。

 芝居は約二時間で終った。それなりに面白くはあったが、前衛的な芝居なので意味がいまいちよく理解できなかった。

 意味など解らなくてもいいのかもしれないし、彼等自身があるいは解られることを拒否しているようにも私には思えたが、やはり物足りなさを感じずにはいられなかった。

 八時頃四人はそこを出て学生街のはずれにある居酒屋へ向かった。そこでささやかではあるが京子の送別会をやるつもりだった。

 その店は予めメイが予約をしておいたので、名前を言うと奥の小部屋に案内された。そこに美加ともう一人の女友達が後で合流する予定だった。

 しかし部屋に入ってみると二人はすでに来ていた。もう一人の友達は山岡由紀と言って京子と同じ女子大の同級生らしく、私は始めてみる顔だった。

 美加ともかなり親しいらしく京子とも共通の友達らしい。小柄でひょうきんな性格のようでお喋りの好きな感じだった。

 京子はもうすでに大学には退学届けを出していたし、就職先も私達の共通の田舎街に決めていた。

 後は今いるアパートの整理をして十一月末にこの街を去ることになっていた。そのことは十一月の初めに京子からの電話で私も知らされていた。

 新しく加わった由紀のおかげで送別会と言っても湿っぽくはならず、明るい雰囲気で終始した。

 終わり近くなって
「滝口、お前高校時代からの友達だろう。京子に一言何かいってやれよ」

 山本が突然言いだしたものだから、私は何も考えてなかったが、こう言うときにぐずぐず言うのは潔しとしないので立ち上がり、思いつくことを喋ることにした。

「えーっと、僕と京子はさっきも山本さんが言ったように高校の美術クラブからの付き合いで、かれこれ六年近くなります。でも肉体関係は一切ありません」

 そこで皆が笑った。

「キスぐらいしたんじゃないの」

 山本がチャチャを入れた。

「神に誓ってそんなことはありません。これは京子の名誉のためにもはっきり言います。

 まあそんなことはどうでもいいんですが、その京子が家庭の都合で大学を辞めなければならなくなったのは非常に残念です。

 しかし彼女にはこの八月に最初に相談された時にも言いましたが、大学なんてそんなに無理してまで行く程の価値がある所だとも思えないので、辞めて働くという京子の決断は正しかったと今でも思っています。

 僕なんかそんな決断をする勇気もなくただ惰性でいるだけですから、京子の決断力には拍手を送りたい気分です。

 社会に出れば大学とはまた違った大変なことも一杯あると思いますが、京子ならきっとうまくやっていけると思います。

 それとこれで最後になりますが、たとえ社会人になっても僕らのこの関係だけは絶対絶やさないように、たまにはこう言う風に皆で一緒に飲むようにしましょう。

 京子頑張ってください。後ろには僕たちが居る事を忘れないで。以上です」

 私はそれだけ言って席に着いた。皆から拍手がおこった。

「では最後に京子の御礼の挨拶としますか」

 山本が言うと

「その前に山本さんからもひとこと何か言ったらどうでしょうか」

 普段はおとなしい美加が珍しくそう言った。その言葉に皆が賛成したので、山本も頭をかきながら仕方なく立ち上がった。

「京子とは肉体関係もある山本です」 と始めたものだから皆が爆笑した。

「バーカ」 京子も少し照れ笑いしながら言った。

「さっき滝口も言ったけど、大学なんて本当にくだらない所だから、さっさと辞めた方が俺もいいと思う。六年もそこにいる俺が言うんだから間違いないよ」

 そこでまた笑いが起こった。

「京子がこの街にいなくなるのは正直言って少し寂しいけど、またすぐに新しい女をつくるからさ」

 と言ったものだから女達から即座に「エーッ」と言うブーイングの声が上がった。

「と言うのは冗談だけど、まあそんなに遠い所に言ってしまうわけではないので、逢おうと思えばいつだって逢えるわけだから、京子、これからもよろしくお願いします」

 山本は冗談なのか本気なのかよくわからないような調子でそう言って椅子に座った。

 私には山本の照れと寂しさがよく理解できた。京子もそれは充分理解している風だった。

「では私が最後に挨拶させてもらうわ」 京子は自ら立ち上がってそう始めた。

「今日は皆さん、私のためにこんなことまでしてくれて本当にありがとう。家庭の事情で大学を辞めることにはなったけれど、私は何も後悔していません。

 私自身これと言ってしたいこともなかったので、何も考えないで大学に入ってきましたが、大学に入ってからもしたいことは見つかりませんでした。

 私の場合はたぶんこのまま四年間いていても何も見つからないと思いますが、たいていの人にとっては、大学と言う所はそう言う自分を見つけるところだとも思います。

 私も二年半いて大学がどういうところかもよく判ったし、こうしていろんな人にも出会えたし、もうこれで充分です。

 この先社会に入っていく不安がないと言えば嘘になりますが、高校からすぐに就職する人達から比べれば、私なんか恵まれていた方だと思いますし、もう未練はありません。

 皆さんと離れなければならないことが未練と言えば未練ですが、山本さんも言ってたように二時間でこの街には来れるわけですから、逢おうと思えば何時でも逢えます。

 また何かあれば何時でも呼んでください。お願いします。今日は本当にありがとうございました」

 京子はそう言って深々と頭を下げた。そして顔を上げた時にはさすがに少し涙ぐんでいた。(つづく)

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2008年5月30日 (金)

「あの白く乾いた季節」-16

四 妊娠

十月末のある雨の日、アパートに来たメイは暫く生理がないと私に言った。私はその話を聞いてドキリとした。

「どれくらいないの?」 私は恐る恐るそう訊ねた。

「もう半月くらい遅れている」 メイは暗い口調でそう答えた。

「今までこんなことってあった?」

「一週間くらい遅れたことはあったけど、二週間も遅れた事はなかったわ」

「そう。だったらちょっとやばいかもしれないな。一度産婦人科に行ってみる?」

「後一週間くらい待って駄目なら行ってみる」 メイはそう言ってその日は帰った。

 その後私はその事が気になって、毎日のようにメイに電話をして生理があったかどうかを訊ねたが、いつもまだないという返事だった。

もしメイが妊娠していたらどうしようと私は真剣に悩んだ。

 産むという選択肢もなくはない。しかし現実的に考えてそれは殆ど不可能だろう。

 世の中には学生結婚をして、子供を作っている奴もいない事はないので、全く不可能というわけではないが、私もメイもそんな気持ちは全くなかった。

 だったら結婚しないで子供を産むか、中絶手術をするしかない。しかしそれは何か後ろめたい犯罪にも似た匂いがする。

 結婚しているカップルなら堂々と行ける産婦人科に対しても、結婚していない自分達が行くのは何か非常に暗いイメージがある。

 同じ妊娠という事実に対して、結婚しているのとしていないのとでは何故こんなにもイメージが違うのだろう。

 だったら結婚とは一体何なのだ。私はそこまで考えざるを得なくなった。

 考えてみれば結婚とは男と女が一緒になることを社会的に認めてもらう儀式に他ならない。だから結婚すればそのカップルは社会の中に組み込まれることになる。

 しかし結婚していないカップルというのは例えその二人がどんなに愛し合っていたとしても、社会的には反社会的な存在に過ぎないのだ。

 だから社会に組み込まれていないカップルが妊娠すれば、その子供を産もうが中絶をしようが、どちらにしても社会は受け入れてはくれないだろう。

 そこまで考えた時、私は今まで考えたこともない結婚という問題に突き当たってしまった。

 メイから妊娠しているかもしれないと告げられて始めて、私は私達の関係が社会秩序からは何も認められていないものなのだということに気がついた。

 もっと言えば恋愛というもの自体が社会秩序に対して激しく対峙したものなのだということに初めて気がついた。

 この社会は男と女が何時までも結婚もしないでくっついている事を好まない。

 結婚と言う儀式を通して社会秩序の中に組み込んでしまいたい。

 そして次の世代の子供を作り社会に対する反抗心をなくして、穏やかに生活して行ってくれることを社会という物は好むものなのだ、と言うことに気がついたのだ。

 十一月に入ったある日、メイは自宅とは違う別の街の産婦人科に行き調べてもらった所、やはり妊娠していると告げられた。

 私はそれをその日の夜にメイからの電話で聞かされた。

「病院に行くの、勇気がいっただろ?」

「勿論よ。物凄く恥ずかしかったわ。待合室で待っているとき、周りの奥さん達が何か白い目で私のことを見ているようで本当に嫌だったわ。それに男の先生の前で脚を開かされて、本当に恥ずかしかった」

「そう。ごめんね、君にだけそんな恥ずかしい目にあわせてしまって。で、どうするつもり?」

 私は恐る恐るそう訊ねた。

「堕すしかないでしょう。滝口さん、何処かそういうことをしてくれるお医者さん知らない?」

 電話の向こうでメイはそう聞いてきた。

「知らない。でも友達の彼女でこの間やっぱり中絶手術した娘がいたから、そいつなら多分知っていると思う。聞いておくよ」

 私はそう答えた。

「お願いね」

「・・・ねえ。俺のこと怒ってる?」

「怒ってもしょうがないでしょ。それよりも手術のことを考えたら気が重いわ。滝口さんその時には一緒についてきてくれるでしょ?」

「勿論行くつもりだよ」 その日はそう言う感じで電話を切った。
 
 その翌日、私は友達と会い、中絶手術をしてくれる街なかの産婦人科医院の名前と場所を教えてもらい、それをメイに知らせた。

 そしてそれから三日後、十一月の冷たい雨が降る日の午後、私とメイはその場末の産婦人科医院を訪れ手術をしてもらった。

 その医院には私達以外に患者は誰もいなかった。

 私はその医院の薄暗い廊下の堅いソファに、三時間ほど座って待った。

 そして手術の後暫くベッドで休憩していたメイが出てきたので抱き抱えるようにしてその医院を出、大通りまで歩いてそこでタクシーを拾いメイを乗せてから私達は別れた。

 両親に手術のことを悟られないようにするのに苦労した、とその二、三日後少し元気になったメイは電話で私に話した。(つづく)

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2008年5月29日 (木)

「あの白く乾いた季節」-15

三 朝の光

 眩しいほどの強烈な光によって私は目がさめた。どうも朝の光のようだ。光は低いところにある窓から私の寝ている布団に直接差し込んできている。

 〈ここはどこだ?少なくても俺の部屋ではない〉 私は二日酔いの頭を必死に作動させた。

 目をうっすら開けてみると、窓にはカーテンはなく、屋根裏部屋のように屋根の傾斜が天井についている。

 そして部屋の奥には誰か見知らぬ若い男が、机に向かって向こうむきに座って何か書き物をしているようだ。

 えーっ!誰だ、あいつは?いくら考えても自分がなぜここにいるのか、あそこにいる男は誰なのか思い出せない。

 確かなことは昨夜ひどく酔っ払っていたということだけだ。

「やあ、目がさめたかい」

 私のわずかな動きで気配を感じたのか男が振り向いた。歳は私と同じくらいで、肩まで伸びた長髪を真ん中で分けた彫りの深いハンサムな顔立ちだった。

 その顔を見てかすかに私の記憶が戻った。

「ああ、でもここがどこで、君が誰なのか、さっぱり思い出せないよ」

「はっはっは、やっぱりね。結構酔っ払ってたからね。でもそんなに思い出せないか?僕の顔も思い出せない?」

「顔は何とか思い出した。昨夜《おふくろ》で会ったんだよね?」

「勿論そうだよ。君は結構上機嫌だった。僕に酒をご馳走してくれたのも憶えてないかい?」

「エーッ?そうなの。思い出せないなあ。でも言われてみると確かに昨夜は気分がよかったなあ。久しぶりに楽しかったような記憶がある。ああ、少しずつ思い出してきたぞ。君の名前は何だっけ・・・そう・・・ジュン・・・ジュンイチ・・・じゃなかったっけ?」

「そうそう、思い出してくれたね。君とは気が合いそうだ、と君はしきりに言っていた。僕がマックス・エルンストを好きだと言ったら急に君は乗ってきたんだ。憶えてるかい?

 エルンストを好きなやつなんて珍しい。俺も大好きなんだと言ってね。エルンストの孤高な感じがすきなんだと君は言っていた。憶えてないかも知れないけどね。

 それからは好きなもの合戦さ。絵画から小説、音楽、最後は女の子の好みまで。大体はよく似ていたけど、三島由紀夫だけは僕と合わなかったな。君は好きだと言ったけど、僕はどうしても好きになれないと言った。違ったのはそれくらいかな。」

 ジュンイチはそこまですらすらと喋った。

「ウーン、よくは思い出せないが、言われてみるとなんとなくそんな事もあったような気がするな。」

 確かに私はジュンイチの誘導により、少しずつ記憶を取り戻しつつあった。

「ところでここは何処なの?君の部屋には違いないと思うけど。」

「元田中さ。だから《おふくろ》からは歩いて十分くらいのところにある。」

「そうか、近いんだ。《おふくろ》にはよく呑みに行くの?僕はよく行くけど君の顔は見たことないな。」

「昨日初めて行ったんだ。前から気にはなってたんだけど常連が多そうでなんとなく入り辛くて入れなかった。

 昨夜は思い切って入ったんだけど、最初のうちはやっぱり落ち着かなかった。その内君と話をするようになってやっと落ち着いたんだけどね。」

「そうだったの。ところで君は何処の学生?」

「僕はまだ学生じゃない。予備校生で二浪目さ。芸大を目指している。その話も昨夜したけど憶えてないかな。」

「ごめん、ごめん。そうだったの。だったら僕より一つ歳下か。でも君の方がしっかりしているよ。それはそうとお腹減ってない?何処かメシでも食いに行かないか。」

 私はそのときになって急に空腹を覚えたのでそう提案したら、ジュンイチはあっさりと同意した。

 私達はそのまま狭い階段を階下に降りて行った。

 私が予想していた通り、その部屋は屋根裏部屋で、正確にいうと三階にあった。二階にも部屋が三部屋ほどあり、一階は雑貨屋さんだった。

 階段を下りていくとその雑貨屋さんの横に出た。

 私達はその店の前を通って、五分ほど歩いたところにある喫茶店に入り、モーニングサービスのサンドウィッチを食べ、ブラックのコーヒーを飲んだ。

 そしてまた《おふくろ》で会うことを約束して私達は別れた。(つづく)

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2008年5月28日 (水)

「あの白く乾いた季節」-14

二 ヤドカリ

 九月半ばに大学の後期が始まった。

 キャンパスにはまた学生達が戻ってきた。しかし私の生活は変わらなかった。

 三日に一度くらいはボックスに顔を出すものの、講義にはゼミ以外はめったに出席することはなかった。

 メイに逢う時以外、私は学生街の中にあるパチンコ店で時間を潰したり、クラブの連中と酒を飲みに行くという生活を繰り返していた。

 メイとは二日に一度くらいのペースで逢っていた。学生街の喫茶店で待ち合わせる時もあれば、私のアパートにメイが訪れる時もあった。

 大学のキャンバスでメイの姿を見るのは、何か気恥ずかしさのようなものを私はその頃から感じ始めていた。

 それは自分の片割れを見る恥ずかしさのようなものだったのかもしれない。

 メイは私にとってはもう自分の一部のようになっていた。

 その自分の一部が私と離れて勝手に歩いている。それが危うくて見ていられないような変な感覚だった。

 メイは市立美術館の近くにある市立の美術研究所のような所に週二回程通い始めた。

 そこは主に石膏デッサンをするところで、授業料も安いので私にも来ないかと誘ったたが、私はとても絵を描く気持ちにはなれなかったので断った。

 九月が過ぎ十月が終っても私のそんな生活は変わらなかった。

 私はいつも自意識に苦しめられていた。

 何処で何をしていても、今自分が何をしているのか、これから何をしようとしているのかを意識してしまい、つまらないからそんなことをするのはやめろ、こういえば相手はこういうふうに思うに違いないから言わない方がいい、とまるで自分の中にもう一人の自分がいるかのように、私が何か行動をしようとすると止めにかかるのだ。

 私は他人と話しをすることすら苦痛になり始めていた。

 他人と接していると何か針の筵に座らせられているような気持ちになった。

 だからその人間と離れて独りになったとき、何故かほっとして胸をなぜ下ろすような気分になった。

 しかし私は本来人が好きな性格なので、少しするとまた人恋しくなると言う繰り返しだった。

 それでも私は次第に他人と接する機会もなくしていった。

 酒を飲み自意識が融け始めると少しは楽になれるので、酒を飲む量も自然に多くなっていったようだ。

 そういうことを意識しないで済む相手はメイと少数の友達だけだった。

 メイと逢っている時だけは素直な自分を出せたし、自然に振舞うこともできた。そしてそういう自分なら自分でも好きになれた。

 しかしそれ以外の私はいわば硬い殻を被ったヤドカリのようなものだ、と自分で思っていた。(つづく)

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2008年5月27日 (火)

「あの白く乾いた季節」-13

第三章 一九七〇年秋

一 台風の日

 街には戻ってきたものの、私には相変わらず何もすることがなかった。いや以前にも増してすることがなかった。

 メイに逢うことすら出来なくなってしまったからだ。

 メイがいる近くに戻ってきたということだけがせめてもの私の慰めだった。〈メイに逢いたい〉そういう気持ちが募るばかりだった。

 私はまたパチンコにはまり始めていた。独りでも出来る遊びは私にはパチンコしかなかったのだ。

 相変わらず終了台にしてしまうほど勝つときもあれば、有り金全てを負けてしまう時もあり、コンスタントに勝ち続けることは難しかった。

 しかしパチンコをしている時だけは、あの訳の判らない憂鬱と焦燥感からも開放されていたし、メイがいない空白感もある程度は埋めることが出来たからだ。

 だが誰もいないアパートに夜遅く帰り独りになると、私はまた啼きたくなるような寂寞感に包まれていた。

 私は夜中には好きなレコードを聴いたり、小説を読んだりして時間を潰した。

 そして明け方、夜が白みだす頃になってやっと寝床についた。

 それでもなかなか寝付くことが出来ず、今いる場所と全く同じ状況の夢を見たりした。いわゆる正夢と言う奴だろう。

 私の部屋の入り口のドアの傍に誰かが立っている気配がして、その誰かが寝ている私の枕元にまで次第に近づいてくる。

 そして私を上からじっと見つめている。私はその気配に耐え切れず目を開けて身を起こそうとするのだが、何故か私の体は鉛のように重く動くことが出来ない。

 それでも何とか力を込めて起き上がるとそこにはもう誰もいないのだ。

 〈夢だったのか〉と少しは安心するが、その後はまた同じ夢を見るのが怖くて眠れなかった。

 ある時などその誰かが気配だけではなく、実際に寝ている私の背中をグリグリと押さえつけようとさえした。

 私はその手を必死で払いのけようとして、渾身の力を込めて振り払ったら目が覚めたこともあった。その手の感触は暫く背中に残っていた。

 とにかくどこまでが現実で、どこまでが夢なのかがわからない、と言うのがその頃の生活だった。

 だからどうしても眠るのは夜が明けた朝になってしまった。

 午後三時頃何とかベッドから這い出し、近所の食堂で遅い昼食をとった後、風呂屋に行って体の汗を洗い流し、ようやくすっきりした気分になって街に出かけていった。

 そして古本屋をあちこち廻ったり、ジャズ喫茶やロック喫茶に入って、一杯のコーラで二時間も三時間も粘って時間を潰したりした。
 
 メイが不意に私の部屋を訪れてきたのは、そんな生活が続いていた或る日のことだった。

 九月になっても暑さは一向に和らぐ気配はなく、台風が近づいているためか曇ってはいるものの生暖かくてべとべとした気持ちの悪い風の吹く日の昼前だった。

 メイは連絡もなく突然やってきた。

 私はその日の朝も夜が明けきってから寝たため、メイが来た時はまだベッドの中にいた。

 ノックの音で目が覚め、ドアを開けるとそこにメイが立っていた。私は全く予期せぬことに驚きと喜びの入り混じった複雑な表情をしていたのだろう。

「どうしたのよ。幽霊にでも出逢ったような表情しているわよ。でも私は幽霊ではなく本物よ」

「たとえ幽霊でも君だったら歓迎するよ」

 私はそう言ってメイを部屋の中に招き入れた。

「よしてよ。私はまだ死にたくはないわ。それにしてもやっと外出できるようになったからこうやって出てきたの」

「外出なんかして大丈夫なの」

「一応大丈夫だと病院では言われたわ。あなたがいるかどうか心配だったけど、この時間だったら多分いるだろうと思って来たのよ。いてくれてよかったわ」

「何で電話しなかったの」

「したわ。何度もしたけど誰も出ないのよ」

「管理人さんはいなかったのかなあ。何処かに買い物にでも出掛けていたのかも知れないね」

「そうかもしれない。でもとにかくあなたに逢えてよかった」

 そう言ってメイは私に抱きついてきた。私もそれを両手でしっかりと受け止めた。

 私達は長く激しいキスをしたままベッドに崩れ落ちていった。病院とは違いここでは人目をはばかることもなく、思いっきり抱き合い愛し合うことが出来る。

 窓の外では台風の接近を感じさせるように、風の音が次第に激しさを増していった。

「今日はもう手ではしないから、私の中に入ってきてもいいのよ」

 キスをしているうちに私の欲望が頂点に達しかけた時メイは突然そう言った。

「本当にいいの?無理しなくてもいいんだよ。俺は我慢できるから」
「いいの、私病院にいる時からそう決めていたの。もう気持ちの整理は出来たから。だからそうして」

 私ははやる心を抑えてゆっくりと時間をかけてメイの服を脱がせ、ベッドの上で静かに横たわっているメイの身体を優しく愛撫した。

 メイは目を瞑ったまま静かにその時を迎えようとしている。

 思っていたより少し手間取ったものの私達の最初の合体の儀式はそうやって始まった。

 私達が一体になろうとした瞬間、窓の外では風の強い音に混じって雨の激しい音が加わってきた。

 それは私達を祝福してくれているのか、それとも非難しているのかその時の私にはわからなかった。

 いつもの手で処理するのとは違い、それはメイという存在が遠い昔に何かの拍子で別れていたもう一方の片割れであったという意識を強く感じさせてくれるものだった。

 私の意識はここ暫く、特にメイに逢えなかったこの何日間かに、自分の存在が〈半分〉だと強く感じ始めていた。

 そして〈残りの半分〉が今ここにいる。

 〈私の片割れ、私の片割れ〉と私は心の中でそう叫びながらメイの中で始めてのクライマックスを迎えようとした。

 下半身が蕩けるような快感に包まれ始め、それとともに私は頂点に達した。

 その瞬間メイは激しく両肢を私の腰に巻きつけ締め付けてきた。そして終わった後も暫くはそれを解こうとはしなかった。

 私もメイの中にまだ硬さを失おうとしないペニスを入れたまま、メイの柔らかい胸に顔を埋め暫くは動けなかった。

 雨はその後も雨脚を緩めず、風も夕方が近づくにしたがって風力を増していった。

 そうした激しい台風に歩調を合わせるかのように、私とメイは夜になる迄何度も何度も激しく愛し合った。

 そしてお互いがお互いの〈残された半分〉であることを何度も何度も確認しあった。

 夜の八時頃、台風の通過とともに私達の儀式も終わりを告げ、私達はお互いに激しい空腹感に襲われて、雨と風が収まった夜の街に出て行き食事をした。

 考えてみればその日私はそれまで何も食べ物を口にしていなかったのだ。メイは食事をした後そのまま家に帰って行った。(つづく)

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2008年5月26日 (月)

「あの白く乾いた季節」-12

五 家族

「明日から二、三日田舎に帰ってくるよ」

 メイにそう言ったのは八月も末に近かった。

 メイはちょっと寂しそうだったが、自分のために旅行ができなくなった負い目を感じているのか何も言わず許してくれた。

 翌日の昼頃私は国鉄の快速電車で田舎に帰った。

 私の田舎はその街から快速電車で西へ二時間ばかり行った、人口五十万ほどの街から、さらにまたバスで四十分程山の方に走った所にある。

 この春休みに一度帰って以来だから五ヶ月ぶりだった。

 バスの窓から見える山と川の景色は昔から変わってはいなかったが、その時の私には心を癒してくれた。

 以前はあれほど私を飽き飽きさせた同じ景色が、その時の私には違って見えた。山の存在感が不自然なほど強烈に私の目に迫ってきた。

〈田舎はやっぱりいいもんだなあ。こんなことを感じるのも歳を取ったせいかなあ〉若いくせにそんなことを考えながら、私はバスの外の景色に見入っていた。

 父と母と妹も私の帰郷を心から喜んでくれた。特に父は一緒に酒が飲める相手ができて嬉しそうだった。

 私は酔っ払って結構生意気な口もきいてしまったが、そんな私を父はなんでもないように温かくそして大きく受け入れてくれた。

 父は昔文学青年だったらしく、文学談義もいろいろした。

 私が昔のいろんな作家の作品について語るのをうれしそうな表情で聞いてくれた。自分の息子がこんなことを語るようになったか、というような表情をして。

 私は今までにはない父の一面を見たような気がした。

 考えてみれば父と一緒に酒を飲みこれほどの話をしたのはその時が初めてだった。

 私は家族の暖かい愛に包まれて暫くの間は幸せだった。

 ただ父の顔色が土色のようにどす黒いのが少し気にはなった。肝臓が悪くなっているのではないかと思ったのだ。

 母にそのことを問いただすと

「そうなのよ、私も心配だから病院で検査してというんだけど、嫌がってしないのよ。絶対におかしいもの、あの顔色は。肝臓は自覚症状が出てきたらもう手遅れだから、と口すっぱく言うんだけど聞いてくれないのよ。本当に頑固なんだから。あんたからもちょっと注意してやってよ」

 と言ってじれったがっていた。私も父に検査を勧めたが、笑って大丈夫だ、と言うばかりだった。

 一方で私は毎日メイのいる病院に電話をすることも忘れなかった。

 電話口に出るメイはちょっと寂しそうではあったが元気だった。

 三日目の朝、メイは明日急に退院することになったから、田舎でゆっくりしてらっしゃいと言った。

 退院しても一週間くらいは家で安静にしておかなければいけないのであなたには逢えないから、と言うのが理由だった。

 私はその言葉に甘えて街に帰えるのを延ばしたが、田舎の退屈な生活にもだんだん飽きてきた。

 私の訳のわからない焦燥感は田舎にいるとよけい大きくなっていった。

 結局田舎には一週間ほどいただけで私は大学のある街にまた戻ってきた。(第二章おわり 第三章につづく)

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2008年5月25日 (日)

「あの白く乾いた季節」-11

四 秘密の遊び

 明くる日からはアルバイトもしなくてよくなったので、私は毎日午後からメイのいる病院に行くようになった。

 そして四、五時間を一緒に過ごした。メイは何よりもそれを喜んでくれた。

 私はメイに何かほしいものはないかと聞いてみたが、何もいらないから毎日来てほしいと言うだけだった。

 私達の秘密の遊びは前にも増して大胆になっていった。

 隣の綾さんが起きていても、ちょっと向こうを向いた隙を見つけてはキスをしたり、綾さんがいない時にはペッティングまでするようになっていた。

 綾さんもそんな私達の行為をうすうす感じているようだった。わざと長い間部屋を離れたり、部屋にいる時でも向こうを向いている時間が長くなったからだ。

 メイは何も言わないが、私が帰った後などにそんな話もしていたのかもしれない。

「あなたたちホントに仲がいいのね。羨ましいわ」

 と言うのが綾さんのいつもの口癖だった。

 ある時私はメイに〈綾さんは我々の秘密の遊びを知っているのではないの〉と聞いたことがある。

「あの人だって旦那さんが来ると結構熱いのよ。私が眠った振りをしている時なんかもう熱々なんだから」

 と言って笑っていた。

 盆を過ぎて何日かしたある日の朝、私はいなかったが綾さんはすっかり元気になって退院して行ったらしい。

 退院の時は二人とも別れを惜しんで涙を流したほど仲良くなっていた。

 綾さんが退院した日の午後の遅い時間に新しい患者さんが入ってきた。

 六十歳位の気の良さそうなおばさんだったので、私はメイのためにいい同居者にめぐり会えたことを喜んでやった。

 毎日夕方の六時頃になると、私は病院を後にした。

 明日にはすぐまたメイには逢えるのに、その時間になると何かせつない気持ちに襲われた。メイもそれは同じようだった。

 私にとってはもうメイのいない生活など考えられないほど、いつの間にかメイは私の生活の中に深く根を下してしまっていた。

 病院からアパートに帰る途中の私は、魂の抜けたような状態になっていた。

 私にはもう他に何もすることがなかった。クラブの友達は皆田舎に帰っていなかったので、飲みに行く相手すらいなかった。

 私はそのままアパートに帰える気にもならず、仕方がないので途中でパチンコホールによって店が閉まるまで、あるいは持ち金がすっかりなくなるまでパチンコを打ち続けた。

 ある時などポケットの中には十円玉が数個しか残っていず、帰りのバス代もなくなり、一時間以上かけてアパートまで歩いて帰ったこともあった。

 暗闇の中をお金もなくとぼとぼと独りで歩いていると死にたいほど孤独な気分になった。(つづく)

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2008年5月24日 (土)

「あの白く乾いた季節」-10

三 猶予期間

 私と山本は盆休み前までその建築設計事務所で働き、盆休みを機に新しいアルバイトと交代した。

 私はアルバイトをしている間中きちっと二日に一度病院を訪れ、メイを見舞った。

 メイは私が来るのだけを楽しみにしていたので、毎日でも来てほしそうだったが敢えてそれはいわなかった。メイの回復力はめざましく、顔色も見る見るうちによくなっていった。

 盆休みの前日、仕事が終わった後、私は山本と繁華街にある飲み屋で明け方近くまで記憶がなくなるほどの酒を飲んだ。

 どちらも酒には目がない方なのでキリがなかった。どうやってアパートまで帰ってきたのか分らないが、気がついたときは自分の部屋のベッドで寝ていた。

 翌日私は管理人のおばさんのノックで目を覚ました。

「滝口さん、電話よ」

 目覚ましを見ると午後の二時を少し回っていた。私は二日酔いでガンガンする頭を抱えるようにして、どうにか管理人室の前にある公衆電話まで辿り着いた。電話は京子からだった。

「もしもし、滝口君。京子です。どう元気にしてる?」

「ああ君か、もし二日酔いが病気の内に入るなら立派な大病だよ」

「また飲んでたの。誰と?一人で?」

「一人じゃない。君の彼氏と一緒だった」

「ああやっぱりそうだったの。道理で昨夜あの人にいくら電話しても出なかったはずだわ。あなたと飲んでいたのね」

「そう犯人は俺。ところで君は田舎に帰ってたんじゃないの。山本さんがそう言ってたけど」

「そう、帰ってはいたんだけど昨日またこちらに戻ってきたの。ちょっと用があって。どう久し振りに映画でも行かない。今スカラ座で《ウッド・ストック》やってるのよ。それとちょっと相談したいこともあるし」

「相談て何?」

「だからそれは逢ってから話すわ。ねっ、いいでしょ」

「わかったよ、でもこれからちょっと風呂屋に行きたいから行けるのは二時間後くらいになるけどいい?」

「いいわよ。じゃあ四時半にスカラ座の前でどう?」

「オーケー」

 私は四時二十分頃スカラ座の前に着いた。京子は先に来て待っていた。

涼しげなブルーの水玉模様のワンピースに白いパラソルをさして、歩道と車道の境目の白いガードレールに凭れるように立っていた。

 雑踏の中でも彼女のその姿はひときわ目立っていた。たくさんの群集が彼女の前を行ったり来たりしていた。

 私は風呂に入って少しはマシになった顔を京子の前にいきなり持って行った。

「もう、びっくりするじゃない。いきなり顔を出すんだから」

 京子は本当に驚いた様子だった。

「映画は五時からだから、何処かその辺でお茶でも飲まない」

「いいよ、そうしよう」

 我々は近くのクラシックな造りの喫茶店に入った。BGMにはスメタナの「売られた花嫁」がかかっていた。

 私はコーラを、京子はアイスレモンティを注文した。席につくなり私は早速例の相談について聞いてみた。ここに来るまでの間も気になっていたのだ。

「ところで早速だけど、相談したいことって何?」

「ああそのことね、実は先日父の会社が倒産したの。だからその話で田舎に帰っていたんだけどね。私もう大学には行けないかも知れないの。

 父はどんなことをしてもお前の大学だけは卒業させてやるとは言ってくれるんだけど私は無理だと思うの。

 折角二年半も行ったんだからここでやめるのはちょっと惜しい気もするけど、考えてみればそれほどまでにして行かなきゃならない所のようにも思えないし、一層のことスパッとやめて何処かに就職してお金を貰って、すこしでも父の借金を返す足しにしたほうがいいかな、と思ったりしているの。

 それで滝口君の意見がちょっと聞きたかったんだけど、どうかしら?」

「突然の話なので俺もどう言っていいのか判らないけど、前からそういう兆候はあったの?」

「半年くらい前から母からはなんとなく聞かされていたので、ある程度は覚悟もしてたのね。でもいざそうなってみるとやっぱりちょっとショックね」

「山本さんはこのこと知ってるの?」

「あの人にはまだ言ってないわ。今度逢った時は勿論言うつもりだけど、あの人の意見は聞かなくても大体想像がつくもの。大学なんてやめればいいよ、と言うに決まっている」

「そうだろうね、そう言うだろうね。大学の価値なんてこれっぽっちも認めてないだろうからね。でもその割に自分は大学院にまで行ってるけど、これも考えれば変な話だよな」

「あの人の場合はただ就職したくないから行ってるだけで、別に勉強したいからでもなんでもないのよ」

「まあそれはそうだろうけどね。確かに大学なんて何なんだろうと考えると解らなくなってくるよ。入るときは一生懸命に受験勉強して大変だけど、入ってしまうと皆それほど勉強している風でもないし。俺も含めてだけどね。

 単なる社会に入っていくための通過点に過ぎないのかな。猶予期間というか。まあ長い人生の中ではそう言う猶予期間が何年かあっても構わないとも思うけれどね。

 そこでいろんな人に出会うのもそれなりに意義のあることかもしれないけれど、それだけなら何も大学である必要もないようにも思えるし。俺なんかも時々一層のこと大学なんか辞めてしまおうかな、と思うこともあるけど、それだけの度胸もなくていまだに決心がつかないでいるんだ。

 しかし君のような状況ならやっぱり話は別で、それほどまでして大学に残る必要はないように思えるけどね。ちょっと無責任な発言かもしれないけれど」

「いいの、いいの、それで。まあもう少し考えて結論は出すわ。そうそう、もうそろそろ映画が始まる時間ね。行きましょう」

 京子はそう言ってテーブルの上におかれた伝票を持ってレジのほうに向かった。

 私は残っていた冷たい水をゴクリと一気に飲んでから京子の後を追っかけた。

 映画は一年前にアメリカのウッド・ストックという場所で、実際に何日間かにわたって開催されたロックコンサートをそのまま映画化したものだった。

 アメリカ全土から何十万人もの若者達が集まってきて、壮大なイベントになったのは、その頃のニュースでも週刊誌でも話題になったものだった。

 それを映画の大画面で観られるのは嬉しいことだった。京子に誘われなくても観に行きたいと思っていたものだった。

 それは想像していたよりもはるかに迫力があり感動的だった。

 何十万と言う人間を一度に見たのも初めてだったし、アメリカではこんなことができるんだ、ということも大きな驚きであり、またそんなことができるアメリカという国が羨ましくもあった。

 普段はレコードでしか接したことの無いたくさんの有名なロック・ミュージシャン達を大画面の映像で見られたのも何よりも嬉しかった。

 中でもジミー・ヘンドリックスのギターとジョン・コッカーのボーカルが強く私の印象には残った。

 私と京子は充分満足して映画館を後にした。その後簡単な食事をしながら馬鹿話をしてその日は京子と別れた。(つづく)

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2008年5月23日 (金)

「あの白く乾いた季節」-9

二 偽善

 山本は私の想像していた以上に仕事熱心だった。

 朝の時間もきっちり守ったし仕事も速かった。私は山本を少し見直した。

 しかし少し心配だったことがひとつあった。それは山本にはこの事務所の少し偽善的な雰囲気が合わないのではないか、ということだったが、彼は彼なりに割り切ってやっているように思われた。

 しかし八月に入って何日か過ぎたある日の朝、仕事をしている私と山本の席に新入社員の三村が近寄ってきた時、私の心配していたことがやはり現実のものとなった。

「これ原水禁の記念のバッジで、一個百円なんですが買いませんか」

 三村は山本に向かってそう言った。私はその時これはまずいことになりそうだと予感した。

「そんなの要らないよ」 山本はきっぱりと吐き捨てるように断った。

「えっ、要らないんですか。どうして?たった百円で世界の平和の祭典に参加できるんですよ。こんなチャンスはなかなかないですよ。買ってくださいよ、一個でいいですから」

 山本の言葉を聞いた三村は、こんなことを断る人間がこの世に存在すること自体が信じられないといった表情でそう言った。

「だから要らないって、あんたもしつっこいね」

「何でですか。山本さんは原爆に反対じゃないんですか」

「あのね、反対とか賛成とかの問題じゃなくて、そんなモン一個買って、世界の平和に貢献していると思っている人間が俺は大嫌いなんだよ。勿論そんなモンを売って満足している奴はもっと嫌いだ。解る?」

 案の定まずい展開になってきたぞ、と私は心の中で思った。

「解りませんね。平和が大切だと思うなら買ってくれればいいじゃないですか」

 三村はそれでも執拗に食い下がった。

「解らなかったら解らなくてもいいよ。あんたはさっきから平和平和と言うけれど、世の中には平和にあくびしている人間もいるってことを知っておいたほうがいいよ。

 皆があんたと同じだとは考えるな。俺なんかあんたみたいな人間には信じられないかもしれないがねえ、退屈な時には一層のこと戦争でも起こってくれないかなと真剣に思うことだってあるような人間だよ」

 三村は山本のその言葉にこれ以上何を話しても無駄だと悟ったのか、首をかしげながら向こうのほうに離れていった。

 一方山本の方は私の方を向いて右目をキッとつむって笑った。そして何もなかったかのようにまた仕事を続けた。

 昼休みに近くの食堂で食事をしながら、私は朝の話を山本に蒸し返した。

「山本さん、朝の話なんだけど本当に戦争でも起こってくれた方がいいなんて考えたことあるんですか」

「ハッハッハッ、冗談に決まってるだろう。あいつがあんまりひつっこいからちょっとからかってやっただけだよ。」

「やっぱりそうでしょうね。そうは思ってたんだけど、ひょっとして山本さんならそんなことも本当に考えるかもしれないなと思って、ちょっと確認したんだけど」

「俺はね、何が嫌いって、三村みたいになんの照れもなしに安物の正義を振りかざす奴程嫌いなものはないんだ、解る?」

「山本さんがそういう人だってことは前から充分解っているつもりでしたけどね」

「さっきの戦争の話も実は全く考えないわけでもないけれどね。でも考えても見ろよ。仮に戦争で死ぬのはいいとしても軍隊生活だけは厭だからね。考えただけでもゾッとするよ。

 俺にはああいう集団生活は絶対できない。それと集団心理。皆が同じ考えでなくては駄目ってヤツ。ちょっとでも違う意見を言うとその集団から弾き飛ばされるってヤツ。

 そういう意味では三村のようなミンコロも、新左翼の連中も同じだな。ただ新左翼の連中のほうが偽善ぶらない分だけまだちっとはましかもしれないけどね」

「僕もそれは同感です」

 私は山本の話を聞いて、彼もまた《非常に難しくて細い道》を手探りで探しながら歩いていくことを自分に強いているのだな、ということを強く感じ、彼に対して今まで以上の親近感をおぼえた。(つづく)

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2008年5月22日 (木)

「あの白く乾いた季節」-8

第二章 一九七〇年八月

  一 入院

 道路のアスファルトが溶けてしまいそうなほど、毎日暑い日が続いている。街を歩いていると車道には陽炎が立っていた。

 私は翌日からメイが紹介してくれた会社に行きアルバイトを始めた。

 仕事は簡単だったし、メイが言っていたように頭を使うこともなかったのですごく楽だった。

 会社の人達もみんないい人ばかりだったのも助かった。少し偽善的な匂いがする程、皆が皆親切で感じのいい人たちばかりだった。

 それに何よりもいつも傍にメイがいるのが私には嬉しかった。

 私達はそこで月曜から土曜まで、朝の十時から夕方の五時まできっちり働いた。私にしては珍しいことだった。旅行に行くと言う共通の目的がバックにあったからだろう。

 私とメイは三日に一度くらい、仕事が終わった後私のアパートで抱き合った。あの日以来彼女は決してアパートには泊まらなかった。

 九時位になるとどんなに一緒にいたくても帰ろうとした。そしてあの日と同じように決して最後の一線だけは越えさせなかった。

 私も敢えてそれを求めることはしなかった。メイはそれがなくても私には充分魅力的だったし、私を満足させてくれた。

 私がアルバイトを始めて十日ほどが過ぎた七月末のある日、メイは何の連絡もなく突然仕事を休んだ。

 どうしたのかな、と少し気にはなったがその日は電話をしなかった。確かに前の日、気だるそうで元気がなかったのが少し気になってはいた。風邪でもひいたのかなと思っていた。

 次の日もメイは来なかった。さすがに私も心配になり、その夜思い切って家に電話を入れてみた。

 電話口にはお母さんらしき人が出た。メイが〈あの人〉と呼んでいる人だ。だが予想に反してしゃべり方は優しかったし、丁寧だったので少し安心した。私は自分の名前を告げ、メイがいるかどうかを尋ねた。

「あの子は昨日急に入院しました。急性肝炎です」 ということだった。

 私はかなりショックだったが、入院している病院名と場所だけを聞いて電話を切った。
 
 翌日、アルバイトを午前中で終え私はメイの入院先に向かった。

 病院は彼女の家のある私鉄沿線の駅の二つ手前の駅にあった。駅から歩いて十五分かかるという。

 バスもあるにはあるらしいが本数が少なく、私は真夏の午後の焼き付けるような太陽の下を十五分程歩いて病院に着いた。

 その病院はかなり大きな市立の総合病院だった。受付でメイの本名と病名を告げると、病棟と階数とルーム・ナンバーを教えてくれた。

 南病棟三階三〇五号室というのがメイのいる部屋だった。その部屋はすぐに見つかった。

 入り口のドアは閉まっていた。ドアの上にメイの本名ともう一人の女性の名前が書いてある札が出ていた。

 ドアをノックするとメイではないもう一人の女性らしい声で、ハイという返事があったので、私はドアを開けて部屋に入って行った。

 部屋の中には病人以外の姿はなかったので私はひとまず胸を撫ぜ下ろした。ひょっとしてメイの両親が来ているかもしれないと言う心配があったからだ。

「今日は」

 と私が挨拶すると手前のベッドで横になって週刊誌を読んでいた二十七、八歳くらいのなかなか魅力的な女性が
「今日は」 と週刊誌越しに私を見て返事をした。

 メイはその時窓側に向けて横になっていたが、私の声を聞いて驚いたように寝返りを打ってこちらに顔を向けた。

「ケイコさん、お待ちかねの彼氏がいらっしゃったわよ」

 手前の女性がメイに声をかけた。私は彼女に軽く会釈をして奥のメイのベッドの方に歩いて行った。

 メイは少しやつれてはいたが、思っていたよりは元気そうだった。

「来てくれたのね。ありがとう。どうしてここが分ったの」

「昨夜君んちに電話してお母さんから聞いたんだよ。でも思ったより元気そうなので少し安心した」

「何も連絡できなくてごめんなさい。今日ぐらい夜にでも電話しようと思っていたんだけど、昨日まではそんな感じではなかったの。でも今朝からはちょっと調子が出てきたので」

「気にしなくていいよ。それに今朝会社のほうにも入院して暫くは来られないと言っておいたから」

「ありがとう。これで旅行も暫くお預けね。残念だわ、楽しみにしてたのに。ああそうそう、あちら綾さん。私と同じ病気だけど入院はもう三週間になるんだって」

「始めまして、滝口です」 私は綾さんの方を向いて挨拶をした。

「綾です。よろしくね。慶子さんずっとあなたのことばっかり話していたのよ。仲がいいのね。羨ましいわ」

「綾さんこそ、毎日夕方にはハンサムなご主人がお見舞いにいらっしゃって仲がいいんだから。私羨ましくて」

「何がハンサムなもんですか。まあごゆっくり」

 綾さんはクックッと笑って、それでも満足そうな表情で週刊誌の方に視線を戻した。
 
 私は六時近くまで病院にいた。

 窓側にある見舞い客用の椅子に座ってメイの左手を握りながらいろんな話をした。両親が来るのはいつも夜だということもその時分かった。

 途中で綾さんがトイレや電話で部屋を離れた時や、うとうと眠っている時など、メイは私にキスを要求してきたり、胸を触ってと言って私の手を毛布の中にそっと導き触らせようとしたりした。

 私がちょっと躊躇すると余計に面白がり、私の首に両腕を巻きつけてきたりして、スリルを楽しんでいるようだった。

 危うく入ってきた看護婦さんに見つかりそうになったこともあった。その時は間一髪でセーフではあったが。

 毛布の中に手を入れて、ブラジャーをつけてない乳房をパジャマの上から愛撫するのは、私も始めはドキドキしたが、スリルがありその分興奮も大きく刺激的だった。

 メイの方も明らかにいつもより感じているのが分かり、それを見る私の興奮も余計に高まった。

 馴れてくると私はその手を少しずつ下にずらし、陰部にまで持っていった。彼女はそれもまた拒否せず楽しんでいた。

 六時近くなり太陽の光も幾分弱まったのをみて、また明日も来るから、と言って私はその日病院を後にした。別れる時メイは泣きそうな表情をした。

 その日から二日に一度午前中に私は病院を訪れ、メイとともに数時間を過ごし、午後からはアルバイトに行った。

 メイと旅行に行くという目的がなくなってしまったため、私のアルバイトに対する意欲は急速に薄らいでいったが、代わりの人間が見つかるまではやらざるをえなかった。

 メイのいない穴を埋めるため、私は山本に声をかけアルバイトに誘った。私の予想に反して山本はあっさりとその誘いを受け入れた。(つづく)

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2008年5月21日 (水)

「あの白く乾いた季節」-7

六 気狂いピエロ

 私が三回目にメイと逢ったのはそんな無気力な生活をしていた時だった。個展が終わって二週間が過ぎそろそろ夏休みに入ろうかという頃だった。

 どうしても出なくてはいけない講義が一つあって、それに出た後私は同じゼミ仲間二人と大学の構内を歩いていた。

 午後四時半を少し過ぎていた。そこに少し離れた所から女友達と喋りながらこちらに向かって歩いてくるメイの姿を偶然に見つけた。

 私は友達と別れメイの方に向かった。メイもすぐそんな私の姿に気がついたようで私のほうに向かって大きく右手を上げ合図をした。

 そしてその右手をそのまま胸の位置まで下げ友達に向けて軽く別れの挨拶をした後、私のほうに向かって足早に歩いてきた。

「久し振り、どうしてたの。クラブにも顔を出してないみたいだけど、元気にしてたの」

 私は逢うなりそう訊ねた。

「ごめんなさい、一度電話をしようと思ってはいたんですけど、よく考えたら私滝口さんのアパートの電話番号知らなかったのね。だから連絡もできなくて」

「そういえばそうだね。お互い電話番号なんてまだ教えてなかったからね」

「そうでしょ。だから連絡できなかったんです。でもここで会えてちょうど良かったわ。私やっぱりクラブは辞めることに決めました。それに今アルバイトもしているし、結構忙しいんです」

「どんなバイト?」

「それはまたゆっくりお話しするわ。それより滝口さん今時間あります?」

「時間なら百匹の犬に食わせられるほど一杯あるよ」

「そうですか、よかったわ。だったらちょっと私と付き合ってくれません。ゴダールの《気狂いピエロ》という映画知っているでしょ?」

「ああ知ってるよ。観たことはないけど聞いたことはある。それがどうかしたの?」

「それがこれから学館のホールで上映されるの。私どうしても観たいんです。一緒に行きません?」

「ああそういうことか。そういえばタテカンにポスターが貼ってあったな。今日だったのか?」

「そう、五時からだから今なら丁度いいの」

「そう、じゃあ行こうか」

「よかったわ。じゃあもうあんまり時間がないから急ぎましょう」

 私達は学生会館のほうに急ぎ足で向かった。映画はその学生会館の四階のホールであった。

 文化団体連盟の主催だ。この組織は一般の学生達の意識を高めるためと称して、いろんな文化的な催しをしていた。

 急進的な文化人を招いて講演会をしたり、アバンギャルドな劇団の芝居を見せたり、反戦的なフォークシンガーのフェステバルを開いたり・・・。この映画もその文化活動の一環だった。 

 入り口には全共闘のヘルメットをかぶった学生が四、五人立っていた。彼らに学生証を見せると一人百円で入ることができた。

 私はメイの分と二人分、百円玉二個を払って中に入った。入ってすぐ映画は始まった。

 映画は素晴らしかった。ゴダール独特の難解さはあったものの、その時の私にはぴったりと来るものがあった。

 乾いた砂に水が滲み込んでいくようにその映画は私の心の襞深くに滲み込んで行くようだった。

 腐廃しきった現実からの脱出の旅に出ようとするフェルディナンとマリアンヌ。

 愛と裏切りと犯罪。

 そして頭に何本ものダイナマイトを巻いてのフェルディナンの壮絶な自死。何もない静かな地中海の風景だけが残る印象的なラストシーン・・・。

 マリアンヌ演じるアンナ・カリーナは以前から私の大好きな女優の一人だったし、ワンピースに隠された腰のラインはフェルディナンが歌で讃えたように溜め息が出るほど美しかった。

 勿論フェルディナン演じるジャン・ポール・ベルモンドも非常に魅力に満ちていたが。

 映画が終わると外はもう殆ど陽が暮れかけていた。

 私達はそのまま別れて家に帰る気にもならず、映画を観終わったあとの興奮を抱えたまま、なんとなく学生街を歩いていた。

 そしていつの間にか二人は手を握り合っていた。

「いい映画だった。なんかあの感じ、今の俺にはすごく良くわかるな。君はどうだった?」

 私の頭の中はさっき見た映画の感動の余韻でいっぱいだった。

「そうですね、私にもぴったり来ました。あの二人の気持ちは痛いほどよくわかります」

 メイも同じことを感じたようだった。

「ねえ。話は突然変わるけど、君には今付き合っている彼氏はいないの?」

 私は前から少し気になっていたことを訊ねた。

「えっ?そのことは前にも少しお話したことなかったですか?高校生の時には付き合っていた彼氏はいたけど今はいないです。それがどうかしました?」

「いや、確かにその話は以前に一度聞いたことはあるよ。でも今いるのかどうかは分からなかったからさ。でももしいないのだったら俺と付き合ってくれないかな。どう?」

 私はできるだけ軽い調子でそう言った。

「いいですよ。滝口さんが私のことをそう言う風に思っていてくれたのは嬉しいわ。喜んでお付き合いさせていただきます。それよりも滝口さんのほうこそ誰か彼女がいるんじゃないですか?」

「そんな娘はいないよ。ほらこの間会った京子のような女友達はいるけどさ」

「そうですか。よかった。じゃあよろしくお願いします」

「ああ、こちらこそ、よろしくね」

「ウフフ、それはそうと滝口さん、私達もどっかに旅行にいきたいですね?何処か知らない所に、マリアンヌとフェルディナンのように」

「うん。出来たらそうしたいね」

「アルバイトしてお金をためてそうしましょうよ。ね」

 メイは私の右手のシャツの袖を引っ張るようにして言った。私はメイの積極的な態度に少し驚いたが、それは冗談のようには聞こえなかった。

 私達はそのまま学生街を通り抜け、いつの間にか街の中央を流れる大きな川の土手まで来ていた。

 そしてコンクリートでできたその河川敷の土手に座り、すぐ下を流れる水の流れをじっと眺めるともなく眺めていた。

 対岸の道路の照明が川面に映ってきらきらと輝いているのがとても美しかった。 

 
 私の左手は自然にメイの肩を抱いていた。

 〈キスがしたい〉 という強い欲望が内から湧いて来るのを私は感じた。

 私は右手をメイの左頬に持って行き顔をそっとこちらに向けさせた後、自分の顔をゆっくりと近づけ、メイの唇に私の唇を重ねた。

 メイの唇は想像通りの柔らかさで私の唇を優しく迎えてくれた。

 唇を重ねているうちに私の中には更なる強い欲望が生まれ、私の右手はメイの胸に下がっていった。

 ブラウスの上から感じる彼女の乳房は見た目よりずっと豊かだった。メイの息使いが次第に荒くなっていくのが私にははっきりと感じられた。

 私たちの接吻はさらに激しく、お互いに舌を絡めあうようになり、私の右手はブラウスのボタンをひとつはずし、中に侵入していった。

 そしてブラジャーを掻き分けて素肌の乳房に達した。そこにはすべすべして柔らかではあるが少し張りのある豊かな乳房と、ちょうどいいくらいの大きさのツンと尖がった乳首があった。

 私の興奮は最高潮に達しようとしていた。

 ズボンの中の私のペニスははちきれんばかりに膨張し、痛いほどだった。

 私の欲望は更なる行動を要求し始めたが、一方では冷静な理性も働いて、この場所でのこれ以上の行動はなんとか抑える事が出来た。

 私はアパートに行こうとメイを誘ったらメイは意外とあっさりとそれに同意した。

 私たちは河川敷の上を走る道路に出てちょうどいいタイミングで来たタクシーを止め、そこから十五分位の所にある私のアパートに向かった。

 タクシーの中でも私達は運転手の目を盗んでは激しいキスを続けたので、河川敷での興奮をそのまま持続させてアパートにつくことが出来た。

「君の裸が見てみたい」

 アパートに着いてドアを閉めるなり、ベッドまで行くのももどかしいくらいの状態で、激しいキスをひとしきりした後私はメイにそう言った。

 メイは私のその要求を素直に受け入れてくれた。部屋の電気はまだつけていない状態だったが、カーテンを閉めていない窓から差し込む月明かりによってぼんやりと明るかった。

 メイはぎこちない手つきでブラウスのボタンをはずし、スカートを下ろした。

 そして両手を背中に回してブラジャーを外した後、ゆっくりとパンティを脱いだ。そしてひと糸纏わぬ姿になって窓の近くまで行きこちらに向かって立った。

 私はそれをベッドに腰を下ろして眺めていた。

 月明かりに照らされたメイの裸身は光と影で立体感を増し、息も呑むほどの美しさだった。

 品よく盛り上がった乳房と、きゅっと引き締まったウエストから急激に下に広がっていく腰の曲線、臍から下に少し膨らんだ下腹部があり、その下に比較的薄めの繁みがあった。

 なんという美しさだ。

「綺麗だ」

 私は思わずそう叫んでいた。それを聞いたメイは少し恥ずかしそうににっこり笑った。

「今度は後ろを向いてみて」

 私は更なる要求をした。メイは黙ってそれに答えゆっくりと裸身を回転させた。

 後姿もまた前に負けないほど見事な美しさだった。

 背中からヒップにかけてのラインの美しさは思わず絵を描きたくなるほどだった。

 豊かに盛り上がったヒップからスッと伸びた脚のラインもまた美しかった。

 私は何時までもそれを眺めていたかったが、一方で内から湧き上がる強く激しい欲望に促されてベッドを離れ,メイの傍に行きその良くくびれた細いウエストを後ろから抱きしめた。

 メイは右手を伸ばして私の首の後ろに巻きつけてきた。

「ありがとう。君の身体は本当に綺麗だ。俺はこんな綺麗なものを今まで見たことがなかった。本当にありがとう」

 メイを強く抱しめながら私は耳元でそうささやいた。

 メイは恥ずかしそうに黙って身を回転させながら私の首に巻いた手をなおのこときつく締め付ける。

 私達はそのままベッドに雪崩れ込み、激しく抱擁しあった。

 私はメイのその美しい裸身を手と唇で愛撫し続けた。メイもまた私のその愛撫に激しく反応した。

 私の興奮が頂点に達しようとした時、私はメイの中に入っていこうとした。だがメイは何故かそれだけはあくまで拒みつづけるのだ。

「どうして?こんなに好きなのに、どうして駄目なの」

「ごめんなさい。でもどうしても駄目なの。まだ気持ちの整理ができてないの。だからこれだけはお願いだから我慢して」

 彼女はそう言って、その代わりその白くてしなやかな指を使って私を絶頂まで導いてくれた。

 私は少し不満が残ったもののそれなりに満足した。(第一章おわり 第二章につづく)

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2008年5月20日 (火)

「あの白く乾いた季節」-6

五 刑場

 私は夜明け前の荒野に独り立っている。まだかなり酒が残っている頭をふらふらさせながら・・・。

 あたりは霧がかかっているように妙に白っぽかった。

 よく見ると、葉を落とした白っぽい枯れ木があちらこちらに立っている。何か戦場跡のような気もする。

 霧のように見えたものはもしかしたら爆弾の煙かもしれない。

 しかもよく見ると独りだと思っていた私の前には、たくさんの囚人服を着た男達が列を作って並んでいるし、周りは見物人らしき人達で埋まっている。

 どうやら私は処刑の順番を待っている死刑囚であるらしい。

 私の前には五十人ほどの囚人がおり、後ろにも二十人くらいが並んでいる。

 二、三十メートル先に小高い丘があり、その頂上にひときわ大きくて高い枯れ木が立っていて、そこに何本かの太いロープが太い木の枝から垂れ下がっている。

 あれが私達囚人の首を絞めるロープであるらしいことも次第に明らかになってきた。

 それにしても何故私が囚人で、何故処刑されなくてはならないのか。

 二日酔いの私にはどんなに頭をめぐらせてみても判らない。判っていることは後三十分もしないうちに、私はあのロープに首を吊るされて死ぬということだけだ。

 時間が経過するに従って、周りの見物人の声が次第に高まってくる。それも良く聞くと私に対する非難の声が殆どのようだ。

 私は視線を見物人のほうに向けた。するとそこには嘗て私が出会った事のある全ての人がいるように思われた。

 小学時代、中学時代の遊び仲間から先生は勿論、近所のおばさん、親戚のおじさん、二年前に死んだはずの祖父、そして勿論母の顔もそこにはあった。

 それらの顔の全てが私に向かって、憎しみと嫌悪の感情をむき出しにして何かを叫んでいる。私はそれらの叫び声に改めて耳を傾けた。

「お前はひどい奴だ!」

「そんな奴だとは思わなかったよ!」

「何て奴だ!あんなことするなんて!お前は人間のクズだ!」

 とか言って叫んでいる。私は一体何をしたというのだろう。

 そういえば昨夜ひどく酔っ払って誰かと喧嘩になったような気もするが、よくは思い出せない。どうしても思い出せない。

 私は見物人の中の母の方に近づき、私は昨夜いったい何をしたのだと聞いてみた。

「お前あれを憶えてないのかい。だからいつも言ってたじゃないか。お前は昔から酒癖が悪いから、よほど飲み過ぎないように気をつけないといけないよと。あれほど言っていたのに、お前は私の言いつけを守らなかった。

 だからこういうことになってしまったんだよ。でももう遅い。いくらお母さんでも、もうお前を助けることはできない。可哀想だけどね」

「だから俺は一体何をしたというんだよ。それを教えてくれよ」

「それは言えない。それだけは口が裂けても言えないよ」

 母はそう繰り返すばかりだった。私は諦めて囚人達の列に戻った。

 私は昨夜やはり余程ひどいことをしてしまったのだろう。それならそれでやったことの罰は受けねばならない。私は覚悟を決めた。

 前にいる囚人の数が次第に減ってきて、私の処刑の番が近づいてくるに従い、周囲の私への非難の声も一層高まっていった。

 そしていよいよ私の番になった。私の前に先端が輪になった太いロープがするすると下りてきた。

 私の両手は後ろで縛られており、もうどうすることもできない。

 〈いよいよ俺にも死ぬ時が来たか。短い人生だったけれどしょうがないか。もう少し生きていい絵が描きたかったがな〉。

 私はそんなことを考えながら死刑の執行を待った。

 一人の男が私のそばにやってきて、前にぶら下がっているロープの輪を私の首にかけた。そしてそれが少し引っ張られて私の首にぴったり食い込む状態になった。

「これであんたも最後になるが、最後に何か言い残すことはあるか」

 五十前くらいの人のよさそうな死刑執行人の男が私に尋ねてきた。

 〈この世で最後に言い残す言葉か、それは俺にとっては何なのだろう。俺にはどんな言葉があるのだろうか〉 一瞬のうちに私はそう考えた。

 そして私には言い残すべき言葉が何ひとつないのに気がついた。

「何もないです」

 私は男にそう答えた。

「えっ、何もない?変わった奴だな、あんたは。死ぬ前に何も言い残す言葉もないのか。それでは生きてこなかったのと同じじゃないか。でもないならしょうがないな。そろそろ執行するよ」

 そういって男は後ろのほうに消えて行った。

 〈生きてこなかったのと同じか。そうかも知れないな。俺はホントに生きていたのだろうか、それともあれは夢だったのか、今ではどちらかわからなくなってしまった・・・〉

 いきなりロープが引かれ、私は宙吊りの状態になった。ロープがグィッと私の首を締め付ける。

 だが私はまだ生きている・・・生きている・・・まだ生きている・・・。

 そこで私は夢から覚めた。私の首筋はぐっしょりと汗でぬれていた。(つづく)

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2008年5月19日 (月)

お詫びと訂正

 昨日私は大変大きなミスをしてしまいました。

 「あの白く乾いた季節」-4を飛ばして-5を先に公開してしまったのです(冷汗)。しかも丸一日そのことに気がつきませんでした。

 先ほど順番を入れ替えましたので、申し訳ないですが、もう一度-4の方から読み直していただけるとありがたいです。

 全く話にならないような初歩的なミスです。今後このようなミスは二度とやらないように充分気をつけますのでお許しください。

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「あの白く乾いた季節」-5

四 白いキャンバス

 個展が終わった後、私の生活は目標を失ってしまったことで、心の中にぽっかりと大きな空白ができそれをどうすることもできず、自堕落で無気力な生活に身を任せていた。

 毎日昼過ぎに起きて、ぶらぶらと大学のある街まで出て行くには行くが、授業に出る気にもならず、学生会館の別室にあるクラブのボックスに顔を出し、私が最も軽蔑し先日メイも非難していたサロン派の連中と当たり障りのないどうでもいい話をしてすごしたり、近くのパチンコホールでパチンコをしたりして時間を潰していた。

 夜になるとサロン派の中でも比較的気の合う奴を誘って酒を飲みに行き、馬鹿騒ぎをしたり、そこに気に入らない先輩等がいたりすると絡んだり口喧嘩をしたりした。

 私はその頃は結構酒癖が悪かったようだ。夜中遅くにアパートに帰るか、帰れないときは誰かのアパートに泊まったりしていた。とにかく酒を飲まなければ眠れない毎日だった。

 その癖心の中には何か得体の知れない空白感と焦燥感があった。

 こんな生活をしていたらいけない、こんな生活をしていたら俺は駄目になる、という苛立ちに苦しめられていた。

 俺はいったい何をしにこの世に生まれてきたのか、俺は何のために生きているのか、と言う自問自答から抜け出せなかった。

 そして自堕落な生活からもまた抜け出せずにいた。

 苛立ちの原因は判っていた。それは個展で全ての作品を並べ終えた時に感じた、あの訳の判らない羞恥心であり、もっと言えば個展が終った後やった打ち上げ会での山本のある言葉からだった。

 山本はかなり酔っ払った後、いつものように話は芸術論になりこう言ったのだ。

「滝口、お前はまだ何も描いてない真っ白いキャンバスを前にしてじっくりと眺めたことがあるか」

「それはないですねえ」

「一度ゆっくりと時間をかけて眺めてみればいいよ。きれいだよ、本当に。そしてこの真っ白な画面を絵の具で汚していく権利が自分にはあるのかどうか考えてみたらいい。

 真っ白いキャンバスよりきれいなものを描く力が自分にあるかどうかを考えてみな。誤解しちゃあ駄目だよ。俺は何もお前にはそんな力がないと言っているのではない。一般論として言ってるんだからね。

 それで俺がいいたいことは真っ白いキャンバスよりきれいものが描ける才能を持った奴だけが絵を描く権利があるということなんだ。音楽でも同じだよ。

 静寂よりいい音を出せる才能を与えられた奴だけが静寂を破る権利があるということだ。殆どの作品はそうじゃないんだけどね。そんなのは単なるガラクタであり、雑音に過ぎないというものが、世間では芸術と呼ばれている作品の殆どだ。

 でもごく小数ではあるが本当に芸術と呼んでも良い作品を生み出す人達が存在していることもまた確かだ。この世界ではそういう選ばれた少数の人間だけが芸術を創る権利があり、世の中の芸術なんてそれで充分なんだよ。

 そうじゃない奴がいくらピーチク、パーチクと騒いでも誰も耳を傾けたりなんかしないんだよ。選ばれた小数の人間から外れた奴はただ黙って大人しく生きていけばいいんだ。才能もないのに何かを表現しようなんておこがましいということだ」

「それは僕のことを言っているんですか」

 私は少しむっとした表情でそう聞き返した。

「いやいやそういうことじゃあないよ。さっきも言ったけどただ一般論として言ってるだけだ。だから絵に関して言えばマルセル・ジュシャンが既製品の便器に《泉》という題名をつけて美術館に展示した段階で終わってしまったんだよ。その後は何をしてもマルセル・ジュシャンの二番煎じにしかならないんだよ」

 私の気を悪くしたような表情をみて、山本はすぐにそう弁明した。

「それはあなたの勝手な言い分よ。何もしないことに対する言い訳よ。どんな人間にでも自分を表現する権利くらいは与えられているはずだわ」

 つかさず横から京子が反論した。

「確かに表現する権利は誰にでも与えられているかもしれない。だから俺が言いたいのは別に自分を表現することはかまわないが、その前に他人が耳を傾けてくれるほどのものを自分が持っているかどうかだ。

 またそういう厳しい気持ちで芸術と言うものに立ち向かっているかどうか、あるいはそういう姿勢で生きているかどうか、と言うことを自らに問いかけているかどうかということだ」

 山本はそう言った。

「山本さんが言おうとしていることは確かに僕にもよく分かります。しかしその作品が芸術と呼ぶに値するかどうかを評価するのは自分ではなく他人ではないでしょうか。

 だとしたら表現したいやつは素直に表現すればいいのではないですか。例えそれが山本さんの言うガラクタであったとしても」

 私はそのように反論した。

「そうよ、そうよ。私は滝口君の意見に賛成よ。あなたは芸術というものを変に観念的に難しく考えすぎてるのよ」

 京子はそう言って私の言葉に賛同してくれた。

 というような感じでその場は暫くその話題で盛り上がったが、私には妙に山本のその時の言葉がいつまでも心に残っていた。

 つい先日個展会場で感じた恥ずかしさの原因がその時やっと突き止められたような気がしたからだ。

 〈そうなんだ。俺があの時感じた恥ずかしさはそれだったのだ。大した才能もないくせに絵なんか描いて、自分を表現しようとするが、お前はいったい偉そうに何を他人に言いたいというのだ。

 この世の殆どの人は己の力をわきまえて、黙っていろんなことに耐えながら生きていると言うのに、そんな黙する人達に対して敢えて訴えなければならない何かがお前にはあるというのか〉

 そういった自問自答がその後私の頭から消え去らなかった。そしてそれが私を苦しめた。

 取り敢えず暫く絵を描くのはやめよう、どうしても描きたい、と言う欲望が自分の中から自然に湧き出て来る迄は、というのがその時にようやく到達した私の結論だった。(つづく)

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「あの白く乾いた季節」-4

三 地下ギャラリー

 六月の下旬私は学生会館の地下ギャラリーで個展を開いた。

 数人の友人が作品の展示を手伝ってくれた。作品は全部で三十数点あった。大して広くはないスペースだったのでちょうどいい数だった。

 私が九ヶ月近くかけて仕上げた作品が遂に公の場に並べられた。

 並べ終わってひと段落し、改めて会場全体を見渡したとき、私はそれまで全く予期しなかった羞恥心で一杯になっている自分自身に気がついた。

 今ここに並べられているものは全て私の内部から生み出された、いわば私の子供のようなもの、あるいは私の恥部のようなものではないか。それが今、白日の下にさらけ出されている。

 そんな自分の恥部を見られているような恥ずかしさで一杯になった。

 私の作品は決して感情を露骨に表現するスタイルではなく、むしろ全くその反対でクールに押さえ込んだスタイルが好みだったし、他人から見てもそう見えるはずなのだが、それでもこれだけの恥ずかしさを感じるというのはどういうことなのだろう。

 こんなことやるんじゃなかった、と言うのがその時の正直な気持ちだった。

 それでも個展自体の評判は決して悪くはなかった。

 観にくるのは学生会館の中と言うこともあって殆どが学生で、たまに事務所や生協の職員とか教授などが来るくらいではあったが、観た人の殆どは結構素晴らしいと評価してくれた。

 中には個展が終われば分けてくれないかと真剣に頼み込んでくる人もいた。

 個展はそこで月曜日から土曜日迄の一週間開いていた。

 メイがそこに顔を出したのは最終日の前日、つまり金曜日の夕方だった。その日は朝からシトシトと梅雨特有のいやな雨が降り続き、夕方になってもやむ気配はなかった。

 湿気がこのギャラリーにまで入り込んできて蒸し暑かった。そろそろ閉めようかなと思っている時

「滝口さん、こんにちは」

 受付のいすに座って小説を読んでいた私の頭の上からいきなり聞きなれない女性の声が聞こえてきた。

 驚いて目を上に上げるとそこにメイが立っていた。一瞬誰だかわからなかったがすぐ思い出した。

 私のその一瞬の戸惑いを敏感に感じ取った彼女は次の言葉を即座に言った。

「水嶋です。絵画クラブの。憶えてもらっているかどうかわかりませんが」

「憶えているよ、君はけっこう印象に残っていたからね」

「そうですか。ありがとうございます。ところで滝口さん、あれからぜんぜんボックスにも顔を出さないから、どうしたのかなと思っていたんですけど、こんなところで個展していらしたんですね。

 私全然気がつかなくて、さっきはじめて気がつきました。すみません。ちょっと観せてもらっていいですか」

「いいよ。ゆっくり観て行って」

 彼女は右手に持っていた柄物の傘を入り口の横にあるアルミ製の傘立てに入れた後、奥に入って行った。

 私はさっきまで読んでいた文庫本の小説に視線をいったん戻したものの、彼女の動きが気になり、頭はそのままで視線だけを彼女の後姿に移した。

 まるで古本屋の親父が客を監視するためにそうするように・・・。

 メイは真剣に私の作品を見ていて、私の視線には気付かないようだった。

 少し小柄だがバランスのとれたいいスタイルをしている。栗色に染めた長い髪とブラックジーンズに紫の半袖のTシャツも良く似合っている。

 そして何よりも細くくびれたウエストからヒップにかけてのラインが素適だった。

 全ての作品を見終わるのに十五分くらいかかっただろうか。メイは私が座っている受付の席まで戻ってきた。

「滝口さん、ありがとうございました。私こういう作品は大好きです」

 メイがそう言ったので私は「ありがとう」と素直にお礼を言った。

「あのう、ちょっと相談に乗ってほしいことがあるのですがいいですか」

 メイは少し遠慮勝ちにそう言った。

「相談?ああいいよ。そろそろここも閉めようかなと思っていたところだったから。だったらちょっと待っててくれないか。ここではなんだからどっかサテンにでも行かない。どう?」

「勿論いいですよ、私が誘ったんですから」

 メイはそう言ってギャラリーを出た所で待っていた。

 我々は近くの〈ルーシー〉と言う喫茶店に行った。

 この店はBGMにビートルズしかかけないことで有名で、ビートルズを愛してやまない連中には人気がある店だった。

 店の名前の〈ルーシー〉もビートルズの〈ルーシー・イン・ザ・スカイ〉という題名の歌から取ったものと思われる。

 店には幸いクラブの連中も顔見知りの奴もいなかった。我々は奥の比較的落ち着ける場所に席をとることができた。

 BGMには二枚組みのホワイトアルバムから〈ホワイ・マイギター・ジェントリー・ウィープ〉がかかっていた。

 ジョージ・ハリソンの泣くようなリードギターが魅力の曲だ。私はコーラを、彼女はレモンティを注文したあと早速相談の中身に入った。

「ところで相談て何なの?」

「そうですね。私この頃クラブに行っていて思うんですけど、あそこにいつもいる人達って、ただゴロゴロしているだけで、ちっとも絵なんて描いてないみたいでしょ。

 何のためにあそこにいるのか分かんない感じじゃないですか」

メイはまた少し言いにくそうにそう切り出した。

「まあそうだね。ボックスにいる連中はそういう奴が多いことは確かだね。でもそれがどうかしたの?」

「ええ。なんて言ったら良いのかよく分かんないですが、私なんかが行っても何か居場所がないと言うか・・・。

 だから私もホントにあそこにずっといていていいのかしらって思っちゃうんです。さっき滝口さんの作品見ていて余計にそう思いました。

 あのクラブにもこうやって真面目にきちっと絵を描いている人もいるというのに、あそこにはそういう人全然いないんだもの。だからもうクラブに行くのはやめようかな、と最近思ったりしていたんです」

「そういうことか。確かに大学封鎖が解除されてからは、ああいう連中が幅を利かせだしたってことはあるみたいだね。

 ボックスは完全にサロン化してしまっているような感じは俺もずっとしていた。だから俺なんかも最近は全然行きたくないし、ここ暫くは行ってないんだ。

 でもアトリエに行けば、結構真剣に絵を描いている奴も何人かだけどいるんだよ」

「そうですね。それは私も知っています。でもあそこはあそこでなにか私なんかが入っていけるような雰囲気でもないみたいだし」

「アッハッハ、そんなことないよ。皆いい奴ばかりだよ。ちょっと癖があってとっつきにくいところは確かにあると思うけどね」

「そうですか、私なんかには何か怖い感じがするわ。でもこれからはそのアトリエに行けばいいかしら」

「そうした方がいいと思うよ。ボックスなんかに行くよりはその方がずっといいと思うよ」

「そうですか。じゃあこれからはそうすることにしようかな」

 我々はそれからもいろんなことを話した。

 メイがどこに住んでいるのかとか、高校時代に付き合っていた彼氏がいたが、大学で東京に行ってしまったのでもう別れてしまったとか、そんないろんな話をしてその日は別れた。

 別れる前にメイは明日の最終日に片付けを手伝いにきますという約束もしてくれた。

 翌日の最終日の夕方、展示を手伝ってくれた連中にメイも加わって片付けはすぐに終った。

 山本のセリカに作品を乗せて私のアパートに一旦持って帰った後、アパートの近くの居酒屋で簡単な打ち上げをした。メンバーはメイのほかに三人いた。

 関口京子は高校時代からの女友達で、その街にある別の女子大に通っている。

 高校時代に同じ絵画クラブに所属していた関係で、その街に来てからも時々会っては一緒に食事をしたり、酒を飲みにいったり、映画を観たりなどしてきた仲で、いろんな悩みをお互いに相談できる貴重な女友達だった。

 大学に入って間もないころ、京子の誘いで生まれてはじめて映画の試写会というものに行ったのだが、それがダスティン・ホフマンの《卒業》だった。

 私は子供の頃から映画好きで、高校時代も私の出身の地方都市で毎週のように新しい映画を見ていたが、この映画は前の場面が終わらないうちに次の場面の声が聞こえてきたりする新しい手法が、その頃の私にはものすごく新鮮で衝撃的に映ったものだった。

 またその映画の主題歌などを歌っていた《サイモン&ガーハンクル》というデュエットの歌も非常に新鮮で印象的だったのをよく憶えている。

 このグループはこの映画一本で一躍世界のトップ・シンガーとなったほどだ。

 京子は見かけこそ華奢で繊細なように見えるが、見かけによらず案外とのんびりした穏やかな性格で、付き合っていても疲れないタイプなので、私には気楽な友達だった。

 山本功三は京子の恋人で、京子の通う女子大の近くにある芸大の院生で彫刻を専攻しているらしい。

 彼と私は勿論京子を通じて知り合った。山本はちょっと癖のある性格ではあるが、私とは何故か気が合い、それは向こうの方も同じらしく何かと私を可愛がってくれた。

 院生とはいえ実態はただ社会に出て働きたくないという理由で大学に残っているだけで、決して優等生と言う訳でないことは皆が知っている事実だった。

 村野美加は山本と同じ芸大の、日本画を専攻する学生で、非常に真面目で物静かな性格なので、何故山本のようなある意味では出鱈目な男と友達関係でいるのかいまだに私にはわからない。

 恐らく山本と言うよりは同じ歳である京子と気が合ったのではないかと私は思っている。

 山本にしろ美加にしろ、私は京子を通じて何回も一緒に飲みにいった仲なので、すっかり友達関係になっていた。

 そこに私も実質的には昨日始めて知り合ったメイが加わったので、はじめは少しぎこちない雰囲気だったが、山本の開けっぴろげな性格も功を奏したのか、次第に打ち解け始め、会の終わり頃にはもう何年も付き合ってきた友達のような雰囲気になっていた。

 特に京子はメイを気に入ったみたいだった。勿論人一倍女好きな山本がメイを気に入らないはずもなかった。(つづく)

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2008年5月17日 (土)

「あの白く乾いた季節」-3

二 美術クラブ

 私がメイに始めて出逢ったのは今年の四月、私が属していた絵画クラブの新入生歓迎コンパの席だった。

 彼女は十何人かいた新入生の中の一人で、十人近くいた女性の中では一番私の印象に残っていた。

 少し小柄で顔も童顔なので女性というよりも、どちらかというと少女といった方が近い感じだった。

 しかし単なる可愛いと言うのとも少し違っていて、可愛さの中にも芯の強さみたいなものは感じられたし、ちょっとした視線の動きとかの中に少しいたずらっぽい何か、もっと正確に言えば小悪魔的な魅力を少し感じたのも憶えている。

 ただその時は一言も言葉は交わさなかったので、そのうち私の記憶の中では埋もれたままになっていた。

 その頃の私は絵画クラブにも殆ど行ってなく、その後彼女と顔を合わす機会もなかったのだ。

 その前の年の五月、大学は全共闘によって全学封鎖されていたが、その年の三月機動隊の導入により約一年ぶりに封鎖は解除され、キャンバスには学生達が久し振りに戻ってきていた。

 四月から講義も再開されたが、社会学の専攻だった私の興味は、その頃には講義よりも元々好きだった絵の方に完全に移ってしまっていた。

 私はいまさら講義に出る気にもならず、アパートの部屋に閉じこもったままただひたすら絵を描き続けていた。

 私は昔から何でもそうだったが、何かをスタートするまでにはある一定の時間が必要だったが、一旦エンジンがかかるとかなりなスピードで驀進するタイプだった。

 その時もやはりそう言う感じだった。

 それは何かに取り憑かれたかのように半年前に始まった。

 大学が全共闘により全学封鎖されている間も、クラブのボックスだけは開いていたけれど、次第に過激派学生たちのアジト化していったこともあって、足が除々に遠のいていったのだ。

 クラブは大きく三つのグループに分かれていた。

 一つ目はいつもボックスにだらだらといて、目当ての女性等が来るのを待っていて、姿を現すとすぐに喫茶店などに巧みに誘って行ってしまう、いわゆるサロン派タイプ。

 彼らは夕方になるとマージャン仲間を誘うか、飲みに行く仲間を探してどこかに消えてしまう。

 格好だけはヒッピーのようなファッションをしていて、いかにも芸術家ぶってはいるが、ただただ女の子目当てにクラブに入ってきているだけで、彼らが絵を描いている姿は一度も見たことがない。

 二つ目は革命派のグループ。

 彼らはサロン派ほどボックスには顔を出さないが、ミーティングとか合宿などがあると必ず顔を出し、得意の弁舌で芸術論を語り、最後には必ず革命論に発展する。

 彼らも決して絵画などは描かず、どうしても作品を創らなければならない時は、アバンギャルドと称してはいるが実は単なるガラクタのようなものを作っていた。

 彼らは文化団体連盟(略して文連という)の委員をしていて、その文連は全共闘の下部組織のようになっていた。

 全共闘は後に赤軍派の元になった社学同(社会主義学生同盟)という急進派のセクトに殆ど牛耳られていた為、我々のクラブにも社学同の影が色濃く根付いていた。

 彼らはクラブを通じて自分たちの勢力を増やすように義務付けられているようだった。

 三つ目が少数ではあるが絵と真剣に対峙している正統派のグループ。

 このクラブは明治時代に創設されたものでかなり長い伝統があり、美術を専門に学ぶ大学ではないわりには美術界で活躍した人も多く輩出しており、現在でも本格的に美術界で活躍しているOBが何人かいて、単なる絵画クラブでは終わらない伝統のようなものがあった。

 その流れを受け継いでいるのがこのグループで、彼らはボックスではなく、同じフロアーにあるアトリエを拠点にしていた。

 私も小学の高学年くらいから担当教師の影響もあって、政治にはかなり興味を持っていたので、大学に入学した当初は学生運動にも多少興味があったので、第二のグループとも親しくし、街頭デモにも何回か加わったりしたこともあったが、学生運動の内