「YUKINO」-4
Ⅳ
斎木は大阪にある、とある設計会社の社員だった。今年で四十六歳になる。
ちょうどその頃斎木は神戸に造られる、新しいホテルの内装設計の打ち合わせのために何度も神戸を訪れていた。その最中にあの大惨事が起きたのだ。
それにより工事の話は一時中断した。しかし施主の強い意向により工事は続行される事になった。
幸い新しい建築物は構造的には何も問題ないと診断されたからだ。
斎木はあの大惨事から約十日後に大阪からまた神戸を訪れた。交通機関が遮断されていたので車で行くしかすべが無かった。
斎木は部下の田村という若い社員が運転する車に、とりあえず水のタンクを二個積み込んで朝の十時に大阪を出発した。
しかし神戸に続く幹線道路は物凄い渋滞でなかなか進む事が出来ず、神戸の中心になんとか着いたのは夕方の五時頃だった。
車の窓から眺める神戸の街は、神戸の中心に近づくにつれて悲惨な状況を見せていた。
それらはもう廃墟としか言えないような状況だった。住宅は崩壊し、ビルは大きく傾き、道はいたる所で寸断されていた。
その日はそのプロジェクトのために会社が用意していた宿舎に二人は泊まった。
宿舎はその当時被害が最もひどいと言われた長田区の山の手にあった。
山の手の方は岩盤が比較的硬かったためか、同じ長田区でも想像していたほどの被害は受けていなかった。
この宿舎には普段は、そのプロジェクトのために東京から来ていた斎木より若い設計者の浅井が一人泊まっていた。
あの日の朝の地震にあい、幸い何も怪我は無かったので歩いて神戸を脱出して、尼崎まで行ってから、なんとかタクシーを拾って大阪まで行き、その後東京に帰ってしまったので、その時は空の状態だった。
「ドンと下から突き上げられるような感じでした。私の身体は多分十センチ位は宙に浮いたと思いますよ」
東京に帰った浅井はその宿舎で地震にあったときの状況を、斎木との電話の中でそう話した。
宿舎になっている小さな一軒屋は屋根の瓦が少し落ちたのと、壁の一部に軽くひびが入った程度で、それ程の被害はなかった。
水道とガスはまだ復旧していなかったものの、電気だけはついていたのでそれだけでもかなり助かった。
夜になって空腹を覚えた二人は、何処かで食事でも出来ないだろうかと外に出てみたら、幸いにも歩いてすぐのところに食堂があり営業をしていた。
店の前に大きな鍋を設置して、その店の主婦らしき中年の婦人が、近所の主婦らしき人と話しながら何か焚き物をしていた。
店は外から見ても明らかに傾いていたが、なんとか崩れずに持っている感じだった。
「なにか食い物はありますか?」
斎木がそう尋ねると
「何んにも出来ひんけどカレーでよかったらありますよ」
その婦人がそう言ったので二人はとりあえず中に入った。
ドアは枠が傾いているためもう閉める事が出来ないためか、開けたままになっていて、中には四、五人の客が地震についての話をしながら食事をしていた。
斎木たちは食事をしながらも店が今にも崩れて来はしないかと常に不安だった。
食事が終わってまた宿舎に戻った二人は他に何もする事が無いので、持ってきたウイスキーをちびりちびりと飲みながら夜を過ごした。
そして次の日、朝から車で元町の海側にある現場の近くまで行き、適当な所に車を止めてそこからは歩いて現場に向かった。
街を歩いていると水平、垂直感覚がおかしくなるほど真っ直ぐ垂直に立っている建物が少なかった。
完全に潰れてしまったビル、潰れてこそいないが傾いて今にも潰れそうなビルがいたるところにあった。
歩道のアスファルトはいたる所に亀裂が入り一部は盛り上がり、真っ直ぐ歩けない道がそこら中にあった。
斎木たちは午前中にオーナー側と打ち合わせを済ませ、午後になってまた車で大阪に戻った。
打ち合わせをしている間にも震度三か四程度の余震が一度来てビルがグラグラと揺れた。
その後も斎木は何回かそのプロジェクトの打ち合わせのために神戸を訪れた。
南港から船でハーバーランドまで行ったり、電車とバスを乗り継いで行ったりした。
時間の経過とともに次第に交通機関も復旧していったが、どんな交通手段を使ってもその頃の二、三ヶ月は大阪と神戸の往復だけでほぼ一日を費やすような状況だった。(つづく)


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