「北回帰線」-31
第五章 貴和子
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市村がバンコクから珠海に帰ってきた次の週から遂に本命にしていた仕事が本格的に動き始めた。
毎週末に成果物のキャドデータを提出しなければならないので毎晩残業が続いた。
隔週にある土曜休暇もなくなり、日曜日さえ休めない事もたびたびあった。まさに仕事漬けの毎日だった。
市村はこんな状態が決して嫌いではない。暇よりはずっといいし、充実感も感じる。それでもこういう状態が一ヶ月も続くと次第に疲れがたまってくる。
春霞には珠海に帰ってきた日の夕方、拱北のイミグレを抜けた時電話を入れて、《上島珈琲》で待ち合わせ、そこで食事を一緒にして、タイからの帰りの空港で買ってきた免税店の香水をお土産に渡した。
春霞は非常に喜んだ。そんなものはこの珠海の街では何処を探しても手に入らないものだからだ。
そしてその日市村は疲れていたので春霞の店には行かず、そのままアパートに帰った。
九月の半ばに貴和子が珠海に来るはずだったが、忙しくて相手が出来ないと言って十月の初めに変更してもらった。
十月の初めに中国では国慶節があり、土日を絡めて四連休があるから、その時なら何とか二、三日は休めそうだったからだ。
その頃までに仕事も一旦切りが付きそうだった。そしてその九月末がやって来た。
森本はこの連休を利用してバンコクに一度帰りますと言って、一緒に行きませんかと市村を誘ってきたが、今回は少し用があるので行かない、と言って断ったので森本は独りでマカオに向かった。
小田もそして社長の野上も今回の連休にはバンコクに行くと言う話を聞いている。
市村も八月にバンコクに行った時、マイに十月の休みにはまたバンコクに帰るかもしれないと言っておいたが、仕事が忙しくなったから帰れない、と電話をしておいた。
マイは勿論悲しんだが、その代わり十月後半のマイの誕生日には何とか帰るつもりだと言うと納得した。
休みに入る二日前、つまり九月三十日に貴和子から本当に行っても大丈夫か、という最終確認のメールが来た。
市村はそれに対して大丈夫だという返事を出した。それで十月一日貴和子は夕方の四時半ごろ香港から着くフェリーで珠海にやって来くることになっていた。
市村はその日は休みだったが、午前中どうしても会社に出なければならない用事があり、それを済ませた後、タクシーで九州港まで迎えに行った。
九州港は初めてだったが、ゴルフに行く時にその前を通った事があるので知っていた。
フェリーは定刻どおりに港に着き、それから十分後くらいに他の乗客たちに混じって貴和子の姿が見えた。一年半振りくらいの再会だった。
貴和子は相変わらず綺麗だった。タイ人や中国人の女を見慣れてしまった市村の目にはやはり服装のセンスが際立って見えた。
「久し振りね。元気だった?何か少し太ったみたいね」
貴和子は会うなり上機嫌でそう言った。
「君こそ元気そうじゃないか。どう、忙しい?」
「そうでもないわ。というより今は暇だわ。でもあなたは忙しそうね。本当に大丈夫なの。休めるの?」
「うん。何とかね。まあとにかくタクシーに乗ろう」
市村は貴和子のスーツケースを引き取り先に歩き始めた。タクシー乗り場ではその時間に合わせてタクシーが何台も並んでいたのですぐに乗る事が出来た。
それから約十五分後にタクシーは市村の住んでいるアパートに着いた。
「わあ、こんな所に独りで住んでるの?随分贅沢ねえ」
玄関に入った瞬間貴和子はその広さに驚いた。
「まあね。こんなに広い部屋は独りでは要らないんだけどさ。会社の寮だから誰と一緒に住むことになるかわかんないからね。それがちょっと嫌だね」
「でも今は独りで住んでるんでしょ。いいわね。でもホントに独りで住んでるの?ホントはいい人と一緒なんじゃないの」
「馬鹿言うなよ。独りさ」
「ホントかな。まあいいわ。だったら私もここに一緒に住ませてもらおうかしら」
「おいおい、それは勘弁してくれよ」
「ほほほ、冗談よ。でもホントにこんな所に住めるなんて羨ましいわ。それに街のど真ん中じゃない。私なんか都心から一時間半もかかる所で二DKのアパートなんだからね」
荷物を一旦リビングのソファーの横に置いた後、貴和子はベランダに続く窓際まで行って街の景色を見ながらそう言った。
「そりゃあ東京じゃしょうがないよ。誰だってそうじゃない。こんな所まで来たんだからせめてアパートくらいはちっとはマシな所に住まないとやってられないよ」
「こんな所って、結構大きな街じゃない。思っていたよりずっと都会だわ」
「そう?でも大きな建物はあるけど、ここはやっぱり田舎だよ」
「そうなの。でも綺麗な街ね。タクシーの中から見ていてもそう思ったわ」
「まあ、中国の街の中では綺麗な方だとは言うけどね。ところでどうする。シャワーでも浴びる。それともこのまま街に出て食事でもする?」
市村は窓からじっと外を見ている貴和子に訊ねてみた。
「そうねえ。シャワーでも浴びようかな。お腹はまだ空いてないし」
「じゃあそうしろよ。部屋は別でもいいか。それとも俺と同じ部屋がいい?」
「あなたはどうしたいの?というよりとりあえず部屋を見せて」
貴和子はそう言って奥の部屋の方に入っていった。そしてひとつずつ部屋を確認してから市村が寝ている主寝室を見た。
「やっぱりこの部屋がいいわね。部屋にバスルームが付いているのがいいわ。それに収納もたっぷりあるし。この部屋をあなたは使ってるんでしょ?」
「勿論そうだよ」
「でも荷物はさっきの部屋に入れておいてもいいわ」
「じゃあそうしようか。とりあえず荷物を片付けておくよ」
市村はまたリビングの方に戻り、貴和子が持ってきた荷物を一番手前の部屋に入れた。
「このバスルーム使ってもいい?」
貴和子が奥の部屋から声をかけてきた。
「ああ勿論いいよ。バスタオルは棚の上にある新しいやつを使えばいいからね」
「ありがとう」
貴和子はそう言ってバスルームに入って行ったようだった。
市村はリビングに戻ってソファーに寝そべり、CDプレイヤーでセロニアス・モンクを聴いていた。
ちょうど夕日が西の空に沈み始めていて、大きな窓の外が赤く染まり始めるところだった。(続く)


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