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2008年7月24日 (木)

「北回帰線」-47

 八時くらいまで二人はその店にいて、それからは雰囲気を変えるためにタクシーで《酒?街(ジョパチエ)》といわれる東の海岸に近い水湾路と言う通りにある街に移動した。

 そこは何軒かのディスコのような店が集まっていて、その店のテラスにはオープン・カフェのように席が作られていて、なにかパリのカフェのような雰囲気があるので、この街では数少ない白人たちの姿もそこでは結構見ることが出来る。

 市村はその中の一番はやっている店を選んでテラスの席についた。

 店の中に入ってもよかったのだが、中はライブ演奏でうるさいのと、その日は年の瀬にしては比較的暖かく気持ちがよさそうだったので、あえて外を選んだ。

 テラスには大きな木が何本かあり、それが下からの照明によって暗闇の中に浮かび上がっており、またテラスから通りのほうを見ると、通りの上一面に細かいイルミネーションがネットのように張られていてきれいだった。

 これならクリスマスムードも満点だ。

 市村はまたワインを一本注文した。そして春霞はフライドポテトを注文した。

「ああ、いい気持ちですね」

 春霞は両手を上に大きく伸ばして深呼吸をするようにそう言った。

「うん、いい気持ちだ。やっぱり外のほうが気持ちが良いね」

「結構白人がいますね」

「そうだね。今日に限っては白人がいる方が雰囲気があるよ」

「ふふふ、そうかも知れませんね」

 春霞は少しピンク色が増した頬を緩めてにっこり笑った。

 やがて赤ワインがウェイトレスによって運ばれてきた。ウェイトレスはそれを二つのワイングラスに注いで二人の前に置いてくれた。

 市村は特別ワインが好きというわけでもないが、中国のワインは安い割には結構いけるので時々飲んでいる。

 市村と春霞はグラスを手に持ってもう一度カンパイした。

「ねえイチさん、イチさんは中国とタイはどちらが好きですか」

 ワインを一口飲んだとき春霞が突然そんなことを聞いてきた。

「えっ?それは難しい質問だなあ」

「タイの方が好きでしょ?」

「春霞にはそんな風に見える?」

「はい。何か分かりませんがそういう風に思います」

「うーん、確かにタイの方が好きかも知れないけど、春霞がいる中国も悪くはないよ」

「そうですか。ありがとうございます。じゃあ、タイと日本ではどちらが好きですか?」

「それはタイだな」

 市村は迷わずはっきりと言い切った。

「どうしてですか?イチさんの生まれたところは日本でしょ。何故タイの方が好きですか?」

「勿論私だって日本という国は好きだよ。でも今の日本はあまり好きじゃない。確かに日本人は戦後一生懸命働いて、経済的にはアメリカに次ぐくらいのお金持ちの国にはなった。

 でもそのおかげでそれまで日本にあったいいものを沢山捨ててしまった。そしてお金だけが大事な国になってしまったような気がする。それはあまりいいことではないと私は思っている。だからあまり好きになれない」

「それは日本人がお金持ちだから言えることでしょ。中国はまだまだ貧乏ですから、もっともっとお金持ちになりたいとみんな考えています」

「そりゃあそうかもしれない。だから私の言っていることはある意味では青臭いことなのかもしれない」

「アオクサイ。それは何ですか?」

「ああ、それは若い学生達が言うような話という意味だよ。つまり現実をよく知らないで、頭の中だけで良いとか、悪いとか言うこと。わかる?」

「はい、なんとなく分かります」

「でも本当にそれは大事なことなんだよ。例えば家族や友達を大事にすること。家の近所の人と親しく付き合うこと。そういうことは本当に人間にとっては大事なことなんだ。

 でも日本人はそれを殆ど捨ててしまった。そして今でもまだその大切さに殆どの日本人は気がついていない」

「タイは違いますか?」

「うん。違うような気がするな。タイも中国と同じくらい貧しい国だけど、皆で助け合って生きているような感じがする。だから皆貧しくても楽しそうに生きている。

 まあ南国だからと言うだけなのかもしれないけどね。そして皆いい表情をしている。私はタイに行ってそのことがどれほど大事なことかが少し分かったような気がする」

「そうですか。でもやっぱり貧しいのは嫌ですね。私の父は故郷で仕事がありません。まだ五十にもなっていないですけど何もすることがありません。

 だから私が毎月仕送りをしています。私の家は、私が送るお金だけで生活しています。もし私がお金を送らなかったら、家には何も現金がありません。買い物も出来ません。テレビも買えません。ですからやっぱりお金も必要です。でしょ?」

「お姉さんは家にお金を入れないの?大学まで行かせてもらったんだろ?」

「そうですね。姉は大学まで行きました。でももうすぐ結婚しますからそれにお金が要りますから、家にはお金を入れません」

「妹は?」

「妹は給料少ないですから無理です」

「じゃあ、春霞だけが家に仕送りしているってこと?」

「そうですよ。私可哀想でしょ。だから私きれいな服も買いたいですけど全然買えません。うー!」

 春霞はそう言って泣く真似をした。市村はその話を聞いて、自分の言っていることはやっぱり青臭いのかなと思った。

 同じ貧乏でも日本人の貧乏と中国人の貧乏とではケタが違うのだ。

「でも私、頑張ります。一生懸命働いて珠海にアパートを買おうと思っています」

「えっ?故郷の家が出来たら田舎に帰るって言ってたんじゃなかったの?それはどうなったの?もう帰る気はなくなったの?」

 春霞と付き合い始めた頃、春霞がそんなことを言っていたのを市村は思い出してそう言った。

「よく憶えていますね。そうです。前はそう思っていましたけど、もう少し頑張ってみようかなとこのごろ思いはじめました。それともイチさん、私はフルサトに帰ってほしいですか」

「そういうわけじゃないけどさ。今の仕事が嫌じゃなくなったの?」

「まあそれも少しはありますけど・・・」

「何だよ。ほかに何かあるの。ちゃんと言いなよ」

「言ってもいいですか?」

「勿論いいよ。言ってごらん」

「イチさんとも別れたくないし・・・」

 春霞は恥ずかしそうにそう言った後顔を下に向けて、上目遣いに市村の方を見た。

「ええーっ!ホント。それは嬉しいね」

 市村は春霞のその言葉が本当に嬉しかった。

「じゃあ、イチさん。私を助けてくれますか?」

〈ああ、来た、来た〉 と市村はその時思ったがそれほど嫌ではなかった。というよりむしろ助けてやりたいと強く思った。

「まあ、出来るだけのことはする」

「本当ですか?ありがとう、イチさんはやっぱり優しい人ですね」
「優しくない、優しくない」
 市村はそう言って激しく手を振った。

 そしてそれから少し間を置いて市村はボソッと言った。

「春霞。今度の正月はタイに行くのは止めにするよ。君と一緒にいることにする。そして来年の中国の正月には九日間の休みがあるから君の故郷に一度行ってみたい。いいかな?」

「本当ですか!勿論いいですよ。うれしい」

 春霞は素直な喜びの声を上げた(完)

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