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「月の女」-1~5

2008年3月 9日 (日)

「月の女」-5

【第四章 日本の恋人】

 ドゥアンはその夜ボクのアパートに泊まった。ボクらは夜中と明け方に二度愛し合った。

 彼女はボクが心配していたような事務的なセックスはしなかった。ボクの愛撫に対して彼女は本気で感じているようだった。それは決して作った反応ではないと今でもボクは確信している。

 何故なら彼女の中心にボクの手が触れたとき、今までボクが寝た女の誰よりも充分に潤っていたからだ。

 愛し合った後のドゥアンはすっかりボクに身を任せて、ボクの腕枕で安心しきったように寝た。その姿を見てボクはドゥアンを愛しいと感じ、このまま暫く付き合っていきたいと思った。

 実を言うとボクには日本に恋人と呼べる女がひとりいる。

 唐沢弘美といい、ボクが勤めている会社の設計室に出入りしているフリーのパーサーだった。つまりパースという建築とか内装の出来上がりの状態を絵に描く仕事をする職業である。

 最近はコンピューターでパースを描くことが多くなってきたので少し需要が減ったようだが、一時はこの業界ではなくてはならない職業だった。歳はボクより五つ年下で二十七歳だ。

 三年前ボクが始めてチーフとして任された小さな仕事があり、その時にボクは弘美と知り合った。

 彼女は美術大学を出て二、三年目で、まだプロといえるような腕ではなかったけれど、変更の多い物件だったためその都度施主の方からパースを要求され、それに対応するには、まだ他に大した仕事を持っていない彼女がボクにはすごく重宝だった。

 駆け出しの弘美もいやな顔ひとつせず、我侭な施主の意向に沿った絵を何枚も描いてくれた。

 弘美はフリーのパーサーだったので、事務所で打ち合わせをして家に持ち帰り、二、三日後にボクが説明した意向に沿った絵を描いて持ってくるというのが普通のパターンなのだが、そんな時間も取れない時には事務所の空いている席を貸して、そこでパースを描いてもらう事も何回かあった。

 誰もいない事務所にボクと弘美だけが夜遅くまで残って仕事をしたことも一度や二度ではなかった。

 ボクは疲れきっていたけれど、何故か弘美と一緒にいるそういう状態が嫌ではなかった。弘美の方もまた同じようだった。

 そのうち仕事が終わった後、どちらからとも無く誘って酒を飲みに行くようになり、親しい友人関係になっていった。 

 弘美はさっぱりした性格でよく喋るし明るかった。どちらかと言うと無口で優柔不断な性格のボクにはちょうど合っていたのかもしれない。話をするのは八十パーセント以上弘美で、ボクは殆ど聞き役に回っていた。

 彼女にはあまり親しい女友達がいないらしく、何でもボクに喋った。ボクに向かって喋ることがかなりのストレスの解消になるらしかった。

 ボクはボクでよく喋る弘美を見ているだけで楽しかった。変に気を使わなくてもよかったので楽だったのかもしれない。

 そんな風にして朝の四時くらいまで飲んだある時、さすがに疲れ切ったボクは弘美をホテルに誘った。渋谷のファッションホテルだった。

 弘美は少し躊躇した様子だったが、酒の酔いも手伝ったのか意外とあっさりオーケーした。その時ボクらは結ばれた。

 それから半年くらい付き合った後、ボクらは同棲した。弘美がボクのマンションに移ってきたのだ。歳から言えば二人とも結婚してもおかしくない年頃だったのだが、弘美がそれを要求してこないのでボクもあえてそうしようとは言わなかった。

 弘美にすれば結婚して家庭に落ち着いてしまうより、もっともっと仕事のキャリアを積んでいきたかったのだろう。

 一緒に住み始めて判かったことだが彼女には意外と家庭的なところもあった。料理も得意そうだし、掃除なども手際よかった。

 でもそれは彼女にとっては自分が一人で生きていくために必要な技術でしかなく、それを仕事にしようという意識は頭からないようだった。今やっている仕事が面白くて面白くて仕方が無いという感じだった。

 それでも東京という大都会で一人で生きて行くにはやはり寂しかったのだろう。結果的には一時的であるにせよボクという共同生活者を選んで生きていくことにしたようなのだ。

 ボクのマンションは下北沢にあり、一DKの狭い所だったが二人で生活するにはそれほど不自由も無かったのでそのままそこで暮らすことにした。

 ボクらは建築を職業にしている割には、自分たちの住むところには結構無関心だった。

 二人とも仕事を持っているので食事などはどうしても外食が多くなったが、それでもできる限り彼女は自分で料理をしようとした。

 彼女の仕事は家でできる仕事なので比較的そのへんは融通が利いたからだ。

 ボクが休みの日でも彼女は休みでないことが多いので、そういう時はボクが家事をひきうけた。

 ボクらは結構うまくやっていた。そしてそれからもうまくやっていけると思っていた。

 少なくてもあのことが起こるまでは・・・。(つづく)

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2008年3月 8日 (土)

「月の女」-4

【第三章 ペイバー】

 次の日から仕事の方が急に忙しくなり、ボクも河島も夜中の十一時近くまで残業の日が続いた。

 そのためドゥアンに逢いたい気持ちはあったが、店に行く時間がなかなか取れなかった。

 土曜の休みも出勤して仕事をした。日曜日は何とか休めたので、ボクは夜になってひとりで住んでいるサービスアパートを出てソイ・カウボーイに向かった。

 河島に電話をして誘ってもよかったのだが、たまには一人で行くのもいいかと思いそうすることにした。五日振りだった。

 ソイ・カウボーイはいつもと同じ、相変わらずお祭りのような賑やかさだ。

 ボクは最初この街並みを見たとき、何年か前に見た熊井啓監督の「海は見ていた」という映画の舞台となる、多分江戸時代の深川だったと思うが、その色街の街並みとまるでそっくりなのに驚いたものだった。

 映画の中では広い通りの両側に店が建ち並び、客引きが大声で客の袖を引っ張り、娼婦がさっきまでいた客を見送っている。

 物売りが人通りの間をぬっていろんなものを売りにくる。客は窓から中の女の値踏みをする。

 ファサードの意匠と、人の衣装を変えればそれはここソイ・カウボーイと全く同じ構成だ。

 何時の時代でも、何処の国でも、人のやることは殆んど変わらないのだな、というのがその時感じた強い印象だった。

 ボクが店の近くまで来ると、もうすっかり顔見知りになってしまった制服組のおばさんが表に立っていて、にっこり笑ってボクを迎えてくれた。

 ボクは「サワディ・クラップ」といいながらカーテンをくぐり店の中に入っていった。

 時間が早かったせいか、生演奏はまだやってなかった。その代わりにイサンの民俗音楽が大音響で流れていて、それに合わせていつものようにステージの上で五、六人の女がキャーキャー騒ぎながら踊っていた。

 女たちは普段はお客の好みで洋楽を仕方なく聴いているが、本当は民謡が大好きなのかもしれない。こういう曲がかかったときの彼女達の乗りは普段とは全然違うのを、ボクはこれまで何度か経験したことがある。

 今も客はまだ殆んどいなかったのでこういう音楽をかけていたのかもしれない。

 ステージの女をよく見ると女たちは皆トップレスだった。その中にはドゥアンも混じっていた。

 ドゥアンはボクが入ってきたのにすぐ気が付いたみたいで、いつも以上に恥ずかしそうな表情をしていた。

 こんな早い時間にボクも来たことがなかったので、この時間帯はトップレスになっていることは今迄全然知らなかった。

 ボクは席に着きながらドゥアンのあらわな乳房に目を奪われていた。

 少し距離があるので細かい所までは見えないが、ちょうどいいくらいの大きさで、乳首がツンと上向き加減で形のいい乳房だった。

 ボクは河島と一緒に来なかったことをよかったとその時だけは思った。いくら河島にでもドゥアンの乳房までは見せたくはなかったのだ。

 ドゥアンがダンシング中なので、暫くしてかわりにノイがボクの前に来た。いつものように両手を顔の前にあわせてタイ式の挨拶をした。

 ボクは横に座るようにすすめ、ノイは素直に従った。ボクはこの前一緒に飲んだ親しさもあって、ノイにすぐにコーラを勧めた。ノイは再び両手を胸の前で合わしてお辞儀をしてからコーラを取りに言った。

  ボクはまたステージに視線を移した。

 ドゥアンは時々ボクの方を見るがすぐ視線をそらしてしまう。恥ずかしいのかなとボクは思い、できるだけそちらを見ないようにつとめたが、どうしても気になりまた見てしまう。

 そのうちノイがコーラを持って帰ってきたので二人で乾杯をした。

「今日は一人なの。シンジは来ないの?」

 ノイが英語を少し話せるのはこの前に知っていたが、今回も英語でそんな質問をしてきた。

「今日は仕事が休みだからボク一人だ。シンジは多分来ないと思う」

 ボクも英語で答えた。それを聞いてノイは少し寂しそうな表情をした。

「ドゥアンはユタカのこと気に入っているみたいよ、今日はペイバーしてあげたら」

ノイはいきなりそんなことを言った。

「ドゥアンがそう言ったの?」

「うん、そう言っていた。ユタカは優しそうだからスキだって」

「そう。それは嬉しいな。教えてくれてありがとう」

 ボクは素直に喜び、またステージ上のドゥアンの方に目を向けた。ドゥアンは踊りも終わりに近づいていて壁面側の見えにくい位置にいたので、前で踊っている女と見え隠れしていて表情まではよく見えなかった。

 それでもノイの話でドゥアンの気持ちがある程度確認できてボクは満足だった。

「この前皆と別れた後、私シンジのアパートに行ったのよ。知らなかったでしょ。でもシンジには私から聞いたとは言わないでよ。」

 ノイは思いがけずそんな事までボクに打ち明けてしまった。タイ人は内緒ごとがあると誰かに話したくてしょうがなくなる民族のようだ。それはよく聞く話である。

 でもその話はボクにはあり得る話だなとも思えた。しかしノイには 

「エーッ!ホント。それは知らなかったな。どこかで待ち合わせでもしたの?」

 と驚いた振りをしてみせた。

「そう、あの後彼はお店にもう一度帰ってきた」

 ノイはいかにも嬉しそうにそう説明した。

「そうか。しかし何もそこまで隠さなくてもいいのにな」

 ボクは日本語で小さく呟いた。

 そういえばあの日はボクの方が先にタクシーに乗ったことを思い出した。あいつはその後独りでまた店まで戻り、ノイをつれて帰ったのだ。それにしても込み入ったことをしやがる。あいつのやりそうなことだ。しかし不思議に腹は立たなかった。

 ステージ上のドゥアンが踊り終えたようだ。ドゥアンはステージの端で白いブラジャーをつけ、いつもの白いシルクのシャツを羽織ってからボクらの前にやってきた。

 そしていつものワイをして、ノイとは逆側の左横に座った。ボクは両手に花という形になりいささか照れくさかった。幸い客は殆んどいなかったので少し気は楽だったが。

 ボクはドゥアンにもコーラを一杯おごり、ついでに自分の分ももう一杯追加した。

 それにしてもボクはさっきから何か気が落ち着かなくなっていた。

 河島に先を越されたという軽いショックと、ノイから聞いたドゥアンの気持ちが入り混じって、今日こそはドゥアンをアパートに誘うかどうかと迷っていた。

 気持ち的にはもうこれ以上待てない感じだったが、ドゥアンがまた事務的なセックスをするのではないだろうかと少し不安だったのだ。

 だがそんなことを何時までも考えていてもしょうがないと思い直し、ドゥアンを口説こうと決心した。それなら早い方がいいだろう。

 ちょうどノイがステージに立ったのをきっかけにボクはドゥアンに話しかけた。

「ドゥアン、ボクはこれから君をペイバーしたいんだけどいいかな」

 ボクは知っているだけの単語を並べてそう言った。ドゥアンはボクの目を真剣なまなざしで見つめながらボクの言葉を理解しようとした。そして理解したようだった。

「ダーイ・カー、何処に連れて行ってくれるの?」

「ボクのアパート。それでもいいかい」

「ダーイ・カー」と彼女はボクの要求をあっさりと受け入れてくれた。

 ボクはまた四百バーツをドゥアンに渡してペイバーした。

 ドゥアンが着替えに行っている間にボクは制服組の一人を呼んでチェックビンも済ませた。それをステージの上から踊りながら見ていたノイが、うれしそうな表情でウインクをしながら合図を送ってきた。

 ボクらは手をつないで店を出、アソーク通りでタクシーを拾い、ソイ二十二にあるボクのアパートに向かった。

 タクシーの中でもボクはドゥアンの手をしっかり握って離さなかった。

 ボクのアパートはソイ二十二の奥深くにあったが、タクシーだと十分もかからなかった。途中でセブンイレブンに寄り、ドゥアンの好きなバカルディを二本買うことも忘れなかった。

 部屋に入るとドゥアンは少し緊張した面持ちで部屋中をひと通り眺めていた。

 部屋は日本流に言えば十六畳くらいのワンルームと、別にバスルームが部屋と繋がってベランダ側に飛び出している。

 入り口近くに簡単なキッチンがあるが不精なボクは殆んど使っていない。

 少し横長の部屋なので、ボクは入って右側のスペースをベッドルームとして使い、籐の衝立と大きな観葉植物で左側のスペースと区切った。

 左側のスペースにはテレビやオーディオセットを置きリビングとして使っている。テレビに向かい合うようにこれも籐製のソファーとテーブルがワンセットある。

 リビングの前にはベランダがあり、これも日本流に言えば六畳くらいあって、そこには木製のガーデンセットがワンセットあり、それを囲むように大きな観葉植物を二鉢置いている。

 家具類は全てもともと部屋についていたものだが、オーディオセットと衝立と観葉植物はボクがこちらに来てから用意したものだ。

 ドゥアンは取りあえず籐製のソファーに腰を下した。ボクがバカルディを勧めると彼女は笑顔でそれを受け取った。

 ボクも冷蔵庫からハイネッケンを一缶取り出しソファーの前のテーブルに置いたあと、ドゥアンを少しでもリラックスさせるためにCDを取り出しイーグルスをかけた。

 このCDには最初に「ホテルカリフォルニア」が入っている。この歌はタイでは永遠のヒット曲のようで、ラジオでもよく耳にする。

ドゥアンもきっと知っているはずだし、店でもライブで聴き馴れているはずだと思ったからだ。

 有名な長い間奏が始まる頃には、ドゥアンの表情が心なしか柔らかくくなったようだった。

 ボクはソファーに戻ってテーブルに置いていたビールを取りあげ栓を抜いた。

 そしてドゥアンの方を向き、彼女が持っているバカルディにビールをカチンとあて「チャイ・オー」といって乾杯した。彼女も「チャイ・オー」と答えた。(つづく)

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2008年3月 7日 (金)

「月の女」-3

【第二章 月と言う名の女】
 
 三日後ボクはまたその店を訪れた。勿論河島も一緒だ。

 激しい熱帯特有の雨(スコール)が降り、そのために近所の居酒屋で一時間くらい足止めをくった後だったので、時間は十時を少し過ぎていた。

 その日はドゥアンのほうが河島のお気に入りのノイより早くボク達の姿を見つけボクの横に付いてくれた。

 ボクはその時ドゥアンがボクの顔を憶えてくれたことでけっこう気分がよかった。

 一方ノイの方はどうやらまだステージで踊っているようだった。ドゥアンがそれを教えてくれたのだ。ボクがステージのほうに目をやると、確かにノイは六、七人の女に混じって踊っていた。

 ノイはドゥアンより背は少し高く、少しほっそりした体型だった。ボク達が来たのに気が付いたらしく、ステージの上から軽く会釈した。

 ノイは踊りだしてまだ三番目くらいの位置にいるので、席にくるのには後十分くらいはかかるだろう。仕方がなく河島もボクとドゥアンの会話に加わった。

 河島のタイ語はボクよりは数段上なので、前回ボクがよく聞けなかったことも聞くことが出来た。

 それによるとドゥアンはこの店に来てから今日でちょうど一週間になるということ、出身はイサンのロイエットという地方だということ、この店に来る前は何とか言うスーパーマーケットの子供服売り場で売り子をしていた、ということなどもわかった。

 また河島のお気に入りのノイとは同郷で、ノイのほうが二つ先輩だということ、ドゥアンとは《月》という意味で、勿論本名ではなくタイ人が何時も使うニックネームであるということもわかった。

〈月か、なかなかきれいな名前だな〉 ボクは心の中でそう呟いた。

 十分ほどしてノイが帰ってくると河島はそちらの方を向いたきりになり、ボクらの会話には加わらなくなってしまったので、ボクらはまた前回と同様殆んど会話が出来なくなってしまった。

 それでもドゥアンは前回よりはボクにも馴れたみたいで、両手をボクの右腕に巻きつけて静かにボクの横に座っている。

 ボクの肘に彼女の胸が自然に押し付けられるような形になるので、ボクはなんとなく嬉しいような気持ちと落ち着かないような気持ちの入り混じった複雑な気持ちになった。

 それでもその状態が心地いいので煙草をすう時も、ウイスキーを飲む時も、ボクは右手を使わず左手だけで済ませた。

 十数分して今度はドゥアンの方が踊る番になった。

 彼女はまだ帰らないでね、と言うようなことを言い残してステージの上に上がった。

 それまで羽織っていた白いシルクのシャツをステージの横で脱いで水着姿になりまた踊り始めた。ドゥアンのその表情は前回はじめてみたときと同じ無表情に変わっていた。

 ぎこちなく腰をくねらせるドゥアンの姿を見て、ボクはなんとなく彼女の水着姿をほかの客に見られるのが厭だなと感じ始めていた。

 早くも独占欲が出てきたのか・・・それにボク自身だって前のようにじっと見詰めることが出来なくなっている。

 それでも、彼女が別の方向を向いている時などは、いやらしいオヤジがじっと品定めをするような視線でボクは彼女の体を眺めた。

 殆んどすべてボク好みの体形だが、特にきゅっと引き締まったドゥアンのウエストとヒップのラインは魅力に満ちていた。

〈抱いてみたい〉 という強い欲望がボクのうちに次第に膨らんできているのが自分でも良くわかった。だが一方ではもう少し気持ちが熟すまで待とうという気持ちもあった。

 正直言うと、タイに来て二ヶ月いる間にボクも何人かの女とセックスをした。みんな先輩たちに連れて行かれた風呂屋とか日本式カラオケクラブの、いわゆるクロウトと呼ばれる女だ。

 だがそう言う店にいる女といざセックスをしてみると、みんな味気が無く機械的でボクは何時も後悔した。

 何故だろうと考えてみて、ボクが自分なりに出した結論は、こちらが一方的に選ぶシステムだからだ、ということだった。

 それらの店では女達は一方的に男達に選ばれるだけで女達のほうには選ぶ権利が無い。女達は選ばれればたとえそれが自分にとってはどんなに厭な相手であっても、それを拒否する権利は無い。

 それは男達には都合のいいシステムかもしれないが、結果的には男にとっても味気ないセックスを強いられることになる。

 それでもいいと言う男もたくさんいるようだが、ボクはそう言うのはどちらかと言えば嫌だった。そんなセックスだったらしない方がましだというのがこの頃のボクの考え方だ。

 ボクはそれ以来そういう所には全く行かなくなった。河島も同じ考えのようで、だから何時も行動を共にするようになったのだ。

 お金を払ってやるセックスなんだから結局同じじゃないか、と言う人もいるかもしれないが、たとえばゴーゴーバーの女だと、前にも言ったように自分の厭な客なら無視したり断ったりすることも出来るはずだ。

 その一見ほんの些細な事のように見える違いも、ボクから見れば天と地ほどの開きがあるように思える。

 確かにゴーゴーバーの女の方もお金目当てであることには変わりないが、彼女達の方にも選択できる余地が残されているというところに、自己欺瞞といわれるかもしれないが、ボクにとっては物凄く大きな違いがあり、女達にとっても何らかの救いがあるように思えるのだ。

 だから今ドゥアンとセックスしようと思えば、あるいはあっさりと出来るかもしれない。彼女もひょっとしたらお金のためにそれを望んでいるかもしれない。

 だが今のボクには彼女の気持ちが例えお金の為であったとしても、もう少し熟してからにしたいと言う気持ちが強くあった。

「どうだ、この娘達を連れて何処かにメシでも食いに行かないか」

 ドゥアンが踊り終えて暫く経ったとき、河島がそう提案して来た。

 ノイの方がまた踊る番が近づいてきたのだが、ノイはもう今日は踊りたくないと言っているらしいのだ。

「いいよ、じゃあそうしようか」

 ボクももうこれ以上ドゥアンの水着姿を他人に見せたくない気持ちもあって、河島の提案に賛成した。

「君をペイバーするから、一緒にメシ食いに行かないか」

 というようなことをボクはつたないタイ語でドゥアンに言った。

 ドゥアンも何とかその意味が解ったみたいだった。嬉しそうな表情で頭を縦に振り「オーケー、オーケー」と今度は英語で答えた。

 だからボクと河島はそれぞれ四百バーツを女達に渡した。女達はそれを持ってレジカウンターの方に行き、店にそのお金を渡してから、私服に着替えるために二階の方に上がっていった。

 ペイバーとは勿論英語で、バーに女の連れ出し料金を支払うという意味で、店によって料金は違うがゴーゴーバーでは大体四百から六百バーツくらいの間だろう。

 このお金は女には還元されず全て店が取ってしまうようだ。要はその女をその夜だけ独占するための費用と考えていいだろう。

 だから店から連れ出してしまえば、後は二人の合意で何処で何をしようが二人の自由ということになる。

 五、六分後、私服に着替えたドゥアンとノイがボク達の前に現れた。二人とも脚にピチピチのジーンズにTシャツといういでたちだった。

 スタイルのいいドゥアンとノイはジーンズがよく似合っていた。ボク達四人は十二時頃そろってその店を出た。

 そしてアソークの交差点にあるバービアに行きボクはジムビーム・ナームケンを、河島はハイネッケンを、女達はバカルディという酒を頼んだ。ツマミにはソムタムという辛いタイのサラダと、ガイヤーンという焼き鳥を頼んだ。

 女たちは店を出たことで気持ちが解放されたのか、店にいるときよりもずっと楽しそうだった。特に女同士が友達だったのもよかったようだ。女たちはお互いによく喋った。勿論ボクには全く理解できないイサン語で。

 だが言葉は理解できないが、彼女たちが今凄く開放的な気分でいることだけはその表情で理解できた。ボクはこの際だと思い前から気になっていたドゥアンの歳をもう一度確認してみた。

「君は本当に二十歳なの?」

「えーっ、本当は違うの。よく分ったわね」

「やっぱりそうか、どうもおかしいと思っていたよ」

「何歳に見えた?」

「多分十八くらいだろ?」

 ボクがそこまで何とかタイ語で言った瞬間、ドゥアンは大きく笑い声をあげた。

 何がおかしいのだろう、ボクには彼女に笑われる理由がよくわからなかった。しかし向かいに座っているノイも同じように笑い転げている。

「何がそんなにおかしいの?」

 ボクは怪訝そうな表情でそう聞いてみた。

「だって、反対のこと言うんだもん。本当は二十二才。二つ若く言っていたつもりなのに」

 その言葉で彼女たちの笑いの意味がやっと理解できた。

 それにしてもボクには驚きだった。ドゥアンは小柄だったのでボクは十八か、もしかしたらそれ以下かもしれないと思っていたのが、二十二歳だったとは。

 しかしボクはその言葉を聴いて本当は少し安心した。もし十代だったらちょっとやばいかなと心の隅で思っていたからだ。

 ボクにはロリコンの趣味はない。でも二十二歳であれば安心して付き合う事も出来る。それでもボクとは十歳も違うのだ。

 十二時近くまでボクらはそこで飲んでその日は別れた。ドゥアンとノイはその後また元の店に帰っていった。その店の三階が彼女達の住まいだったからだ。

 田舎からバンコクに出てきた女たちが、ゴーゴーバーでなくても、たとえば居酒屋に勤める場合でも、マッサージ屋で働く場合でも、とりあえず住む場所としてその店の三階か四階くらいに、そういう女達専用の住居が用意されていて、雑魚寝状態で住んでいるという話をよく聞く。

 ボクはそんな所をこれまで覗いたことは無いので、実際にどういう状態なのかはよくわからないが、日本人ならおそらく厭になりそうな環境であろうことは容易に想像がつく。

 それは程度の差こそあれ彼女たちも同じで、早くお金をためてそんな環境から脱出し、たとえ友達と二人住まいであってもいいから、取り敢えず自分達のアパートを借りて住みたい、というのが彼女達の目の前の目標なのかもしれない。

 ドゥアンとノイがその後また店に戻って働いたのか、それとも三階に上がってそのまま寝たのかまではボクにはわからない。(つづく)

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2008年3月 6日 (木)

「月の女」-2

【第一章 怪しい照明の下で】

 ピンク・フロイドの《アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール》が大音響で鳴り響いている薄暗いゴーゴーバーのステージで、天井で廻るミラーボールの淡い光を体に受けながら、五、六人の水着姿の女が身をくねらせて踊っている。

 ボクはバンコクのスクムビット通りにある、ソイ・カウボーイという街のゴーゴーバーの片隅で、いつものようにジムビーム・ナームケン(ジムビームのロック)を手にしながら、女たちの踊りを眺めている。

 ハイネッケンの小瓶を一本飲んだ後はずっとこのジムビーム・ナームケンだ。

 もう四杯目になる。酔いで頭が少し朦朧としてきている。こう言う状態がボクはとても好きだ。もうすっかり仕事のことなんかは頭の中から消え去っている。

 ボクの横にはもう一人、会社の同僚の河島慎二が座っている。

 彼とボクとは同期入社でタイに来たのは彼のほうが七ヶ月早かった。彼が設計の担当をしているある建築のプロジェクトでボクは彼の応援のためにやってきたのだ。

 ボクがタイに来たのは二ヶ月前。後二ヶ月くらいはバンコクにいることになるだろう。

 ボクと河島は最近この店によく来る。といってもボクは今日が三回目で、もともとは河島が開拓した店だ。

 彼は事務所が比較的近いことと、この店の生バンドの演奏が気に入ってよく来るようになったらしい。

 このバンドは六、七十年代の、ローリング・ストーンズ、イーグルス、ピンク・フロイド、クラプトンなどを演奏する。

 ボクも河島もまだ三十二歳だから彼らが活躍していた頃は生まれていたかどうかという頃だが、ボクの場合は両親がボクの小さい頃によくこういう音楽をレコードで聴いていたので、いつのまにか影響されて好きになってしまったのだ。

 それは河島も同じらしい。

 そういえば演奏しているバンドの連中達もボクらと同世代のようだ。

 ボクが初めて河島に連れられてこの店に来たとき、まずゴーゴーバーで生演奏をやる店自体が珍しかったのと、しかも古いロックをやるというのに感動して、ついつい飲みすぎてしまったことがある。

 客層は殆どがファラン(白人)のおっさんだが、彼らもまたひどくこの演奏に乗っている様子だった。

(それにしてもファランというのはどうしてこう、そろいもそろってノリがいいのだろう)。

 それ以来ゴーゴーバーに行くならこの店と決めてしまった。女たちがやたらにコーラを要求してこないのも、日本人が少ないのもボクらには気に入っていた。

  ステージの上では相変わらず女たちがくねくねと腰をくねらせて踊っている。見るからにダンスが好きで、ステンレスの支柱を支えにして激しく体を動かしている女もいれば、いかにもやる気なさそうに事務的に体を動かしているだけの女もいる。

 その中にボクにはさっきから気になっている女が一人いた。

 その女は他の女と同じように褐色の肌をしていて、ストレートの黒髪を後ろでくくり、背は少し低いがバランスの取れたスタイルをしている。

 ひざの骨が出ていなく足首がきゅっと引き締まっているのもボクの好みにぴったりだ。

 水着の露出度は他の女と比べると低く、むしろ野暮ったいと感じられるほど大きく、見た目は決してセクシーではなかったが、後ろから見るとヒップは立体的にキュッと突き出ていて形がいいのは見て取れた。

 そしてその動きからみて、まだあまりこういう仕事には馴れてないなという感じだった。

 始めてみる顔なので、最近この店に入った娘なのかもしれない。

 ボクはさっきからじっとその娘に視線を送り続けている。

 暗いのでよく分らないが、その娘もボクの視線にはさっきから気がついている風だったが、その娘はずっと無表情でボクの視線に対してもこれと言った反応は示さない。

 こういう仕事に少し馴れた女なら、視線に気づくと何らかの合図を送ってきたりするものなのだが彼女はその気配も無い。

 もしかしたらボクは彼女には嫌いなタイプなのかな、とも考えた。

 女によってはファランしか相手にしない女もいて、日本人がどんなに視線を投げかけても無視するのだ。

 だが彼女は何故かそういう風にも見えない。ボクにはただ彼女は不慣れなことに戸惑っているだけのようにしか見えないのだ。

 取り敢えずあの娘が踊り終われば一度横に呼んで、コーラでも奢って彼女の反応をみてやろうと思った。酒の酔いもその気持ちを後押しした。

 河島の横にはもうすでに女が付いている。名前はノイというらしい。

 彼は以前からその娘を気に入っているみたいで、この店によく来るのも、ひとつにはその娘が目当てというのもあるようだ。

 今日も入ってくるなりその女は彼の姿を見つけ、すぐ彼の横に座った。そしていまコーラをもらっている。

 別にコーラでなく酒でもいいのだが、酒を飲むとダンスが辛くなるためかコーラを頼む女が多い。

 この街ではコーラを頼むとそのうちのいくらかが彼女たちの取り分としてもらえるみたいだ。

 一日のうちでお客から何杯コーラを奢ってもらえるのかボクは知らないが、安いギャラで働いている彼女達にはそういうことも貴重な収入源のひとつになるのだろう。

 だから店によってはがめつく「コーラ、コーラ」とせびりに来る女も多いのだが、この店は店の方針なのか、女達の気質がそうなのか良くわからないが、顔なじみの客にしか行かないみたいだ。

 だからかどうかは分らないが、ボク達みたいに新しい客には誰もせびりに来ないのでわずらわしくなくていいのだが、一方で逆にあまりにも放っておかれると少し寂しい気もする。

 そう言う意味では客の心もちょっと複雑で身勝手なのかもしれない。

 この店では女たちは一曲ごとにひとつずつ位置をずらして行き、ステージの上を一周すると新しい女に交代するというシステムになっている。

 ボクはさっきから気になっている女の踊りが終わりそうになったとき、制服組のおばさんを呼び、あの六十四番の娘を呼んでくれと勇気を振り絞って頼んだ。

 六十四番というのがその娘につけられた番号で、ブーツにその番号は付けられていた。

 暫くして女は水着の上に白いシルクの薄いシャツを羽織ってボクの席の前にやってきた。

 そして真剣なまなざしでボクを見詰めながら、胸の前で両手を合わせて軽くお辞儀(タイ語でワイという)をしながら「サワディ・カー」と挨拶した。

〈まつげの長い娘だな〉と言うのが女を近くで見たときのボクの最初の印象だった。

 ボクは自分の席の横に座るように手招きした。女は素直にボクの指示に従いボクの横に座った。

「水野、お前この娘を指名したのか」 

 女がボクの横に座ったのを見て、河島がそう問いかけてきた。

「ああ、そうだよ。どう、この娘可愛いだろ」

「まあな、お前の好きそうなタイプだ。でもまだ子供じゃないの」

「そうかなあ、そんな気もするけどまあ聞いて見るよ」

 ボクは自分から指名した以上、まず自分から話しかけるのが礼儀だろうと思い

「パサ・アンキット・ダイマイ?」 とまず英語が出来るかどうかをたずねた。

 アンキットと言うのはタイ語で英語のことだ。

「メダーイ・カー」 女はできないと言う。

 ボクは仕方がないので、わずかに話せるタイ語を駆使して喋ることにした。

「チュウ・アライ・クラップ」 ボクはまず彼女の名前を尋ねた。

「ドゥアン・カー」 女はそう発音したのだがボクにはグアンときこえた。

「グアン?」 ボクがそう聞き返すと

「メチャーイ!ドゥアン・カー」  女はもう一度ゆっくり言い直した。

「ドゥアン?」 「チャーイ・カー」

 どうやらボクの発音もなんとか合ったみたいだ。今度は自分の名前を言う番だ。

「ポム、ユタカ」 ボクは自分の顔を指差して自分の名前を言った。

「ユカタ?」 ドゥアンはそう言うので

「メチャーイ、ユタカ」 今度はボクが女の言葉を修正する番だ。

「ユ ・ タ ・ カ?」 女はゆっくりとそう発音した。

「チャーイ」 ボクがそう言うと女はゆっくりと「ユ・タ・カ、ユ・タ・カ、ユ・タ・カ」と何度も繰り

返した。

 そしてお互いに笑いあった。笑うときれいに並んだ白い歯がとてもチャーミングだった。

 ボク達の会話はそんな風にして始まった。

 ボクのタイ語のボキャブラリーはほんのわずかで限られているので、喋れることも限られていた。

 それでも彼女の歳は二十歳だというのは分った。しかしどう見てもそうは見えなかった。

 河島に聞いても

「それは嘘だろう。せいぜい十八か、もしかしたら十六くらいかもしれないぜ。最近は取締りがうるさいので、この街の娘達は歳に関しては結構嘘つくからなあ」

「そうだよな、どう見たって二十歳には見えないよな」

 ボクもそう思ったのでそんな風に答え、でも取り敢えず歳の話には逆らわずにいた。

 ボク達はその後話せる言葉も少ないので、一応のありきたりの挨拶会話を済ませた後は殆んど黙ってステージの上のダンスを見ていた。ドゥアンもおとなしくボクの横に座っていた。

 そして三、四十分後くらいに、また踊らなければいけないというドゥアンの言葉をきっかけにしてその日は帰ることにした。

 帰る前にボクは横に座ってくれたお礼として、またこの次来た時憶えていてもらうために百バーツ札を一枚チップとして渡した。

 ドゥアンはまたワイのポーズでお礼を言った。(つづく)

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2008年3月 5日 (水)

「月の女」-1

         

              月は遥か遠くの空にあって

                                    静かにボクの足元を照らしてくれる・・・

【プロローグ 四角の正立方体】

 何故なのだろう?

 今日の午後ドゥアンと別れてからずっと、ボクの胸は奇妙な感情に支配されていた。

 それは何かどうしようもないような《切ない気持ち》と言えばいいのだろうか。

 胸のみぞおちのあたりに四角い切なさの塊のようなものが詰まっている感じがする。

 何十年か前に池田満寿夫と言う版画家が描いた絵で、確か裸で寝そべった女の胸のあたりに真四角の立方体があり、その立方体が雲の浮かんだ空になっている版画があったが、今のボクは正にその女と同じ状態だと言っても間違いではないだろう。

 ボクは生まれてはじめてこんな気持ちになった気がする。

 何故なのだろう?何故こんなことになるのだろう。

 これは一体何を意味するのだろう?ボクはやっぱりドゥアンに惚れてしまっていたのだろうか・・・?

 ドゥアンと別れた後、帰りの荷物を整理している間も、その後会社の連中がバンコクを離れるボクの為にちょっとした送別会をしてくれたのだが、その間もずっと、その四角い塊はボクの胸から消えなかった。消えないどころかそれは一層大きくなっていくようだった。 

 夜の八時になってボクは会を抜けて、それまでの四ヶ月間住んでいたアパートに戻った。

 河島だけが一緒にボクのアパートまで付いて来てくれた。

 そして整理の終わった荷物を持ち、部屋を出て鍵を掛け、タクシーの拾える通りまででた。その時、それまでは絶対に電話はすまいと決めていたドゥアンにいつの間にか河島が携帯で電話を入れていた。

 河島は二言三言ドゥアンと喋った後、

「おい水野、ドゥアンだよ。最後だから何か言ってやれよ」

 河島は自分の携帯電話をボクの方に差し出してきた。仕方なくボクは電話に出た。

 電話の向こうで聞きなれたドゥアンの声が聞こえる。そのとたんにそれまで胸のみぞおち辺りにあったその四角い塊が一挙に融けて外に溢れ出ようとした。

 それを何とかこらえて、ボクは電話の声に意識を集中した。

 電話の向こうでドゥアンは一生懸命に何かを言っているのだが、タイ語の苦手なボクには目の前にいて表情を見ながらだったらなんとなく理解できる言葉でも、電話ではドゥアンの言っていることが殆んど理解できない。

「今何処にいるの」というのだけボクははかろうじて判った。

「今はアパートにいるが、今からエアポートにいく」

 ボクは何とかそれだけをタイ語で言った。その後もドゥアンは何か言っているがやっぱりよく判らない。恐らく気をつけてね、というようなことを言っているのだろうとボクは思った。

「ドゥアン。キットゥン、キットゥン、マックマー。サワディ・クラップ(ドゥアン。君がとても愛しいよ、さようなら)」

 ボクは取り敢えずそれだけを何とかドゥアンに告げると急いで携帯を河島に戻した。

 河島はタイ語でまだドゥアンと何か喋っていたが、ちょうどその時タイムリーにタクシーが来たので止め、ボクは河島に合図を送って逃げるようにタクシーに乗り込んだ。

 河島は少し変な表情をしながらも、左手で電話をしながら空いている右手を少し挙げてさよならの合図を送ってきた。

 ボクはドアを閉め運転手に空港まで行ってくれ、と言い終わった瞬間、それまで何とか持ちこたえてきた涙が堰を切ったようにドッと流れ始めた。

 自分の中にこんなにも大量の涙があったのかと思えるほど、涙は止まらなかった。

〈やっぱり電話なんかに出なければよかった。河島のやつ、余計なことしやがって〉ボクはそんなことを思いながらも、さっき聞いたドゥアンの声を思い出していた。

 もう一生逢えないかもしれないと思うと余計に涙が止まらなかった。

 所詮ボクらの関係はお金で繋がった関係だ。愛でも恋でもない。お金さえもらえばドゥアンだって他の男と寝るかもしれないのだ。

 ボクにはそれを止めさせることは出来ないし、また止めるつもりもなかった。そんな関係でしかない女に惚れては駄目だ、と無意識に自制が働いていたのだろうか。

 昨日までのボクは別れた後の自分が今こんなにも取り乱すとは思ってもいなかった。でもそれは自分を欺いていたのかもしれないと今では思い始めている。

 タクシーはスクムビット通りに出て西に曲がった。アソーク通りを超えるとき右手にあの懐かしいソイ・カウボーイの街が見える。

 ドゥアンが今あそこにいると思うと、ボクは居ても立ってもいられないような気持になった。

 今頃あいつは生活のためにボクとは違うファランの男なんかにコーラをせびっているかもしれないと思うと、一層のことタクシーを止めて店に行ってしまおうかという気にもなった。

 でもそれは未練だ、そんなことをしても一生彼女の面倒を見ることなどはできない以上、結局は一緒なのだという気持も一方で働き、何とかその気持を抑えることが出来た。

 昨日サメット島の浜辺で海を見ながら、空港まで送りに行くといって聞かなかったドゥアンを、それでは帰りのお前の方が心配だから来なくてもいいと何とか説得したのに、そのボクが今頃になってノコノコと店に戻ったのでは格好も何も付かない。

 それに今考えれば、空港に来させなかったのも正解だったかもしれない。こんな涙をあの混雑した空港の中で皆に見られたらそれこそ格好が付かないからだ。

 ボクはそっと運転手の方に目をやったが、彼はボクのこんな状態に何も気づいていないようだった。

 ボクは高速道路の周りの通り過ぎていく夜のバンコクの街の風景を眺めながら、ドゥアンと過ごした二ヶ月間を思い出していた。それはもうすでに現実感を伴わない夢のように思われた。(つづく)

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