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「あの白く乾いた季節」第一章

2008年5月21日 (水)

「あの白く乾いた季節」-7

六 気狂いピエロ

 私が三回目にメイと逢ったのはそんな無気力な生活をしていた時だった。個展が終わって二週間が過ぎそろそろ夏休みに入ろうかという頃だった。

 どうしても出なくてはいけない講義が一つあって、それに出た後私は同じゼミ仲間二人と大学の構内を歩いていた。

 午後四時半を少し過ぎていた。そこに少し離れた所から女友達と喋りながらこちらに向かって歩いてくるメイの姿を偶然に見つけた。

 私は友達と別れメイの方に向かった。メイもすぐそんな私の姿に気がついたようで私のほうに向かって大きく右手を上げ合図をした。

 そしてその右手をそのまま胸の位置まで下げ友達に向けて軽く別れの挨拶をした後、私のほうに向かって足早に歩いてきた。

「久し振り、どうしてたの。クラブにも顔を出してないみたいだけど、元気にしてたの」

 私は逢うなりそう訊ねた。

「ごめんなさい、一度電話をしようと思ってはいたんですけど、よく考えたら私滝口さんのアパートの電話番号知らなかったのね。だから連絡もできなくて」

「そういえばそうだね。お互い電話番号なんてまだ教えてなかったからね」

「そうでしょ。だから連絡できなかったんです。でもここで会えてちょうど良かったわ。私やっぱりクラブは辞めることに決めました。それに今アルバイトもしているし、結構忙しいんです」

「どんなバイト?」

「それはまたゆっくりお話しするわ。それより滝口さん今時間あります?」

「時間なら百匹の犬に食わせられるほど一杯あるよ」

「そうですか、よかったわ。だったらちょっと私と付き合ってくれません。ゴダールの《気狂いピエロ》という映画知っているでしょ?」

「ああ知ってるよ。観たことはないけど聞いたことはある。それがどうかしたの?」

「それがこれから学館のホールで上映されるの。私どうしても観たいんです。一緒に行きません?」

「ああそういうことか。そういえばタテカンにポスターが貼ってあったな。今日だったのか?」

「そう、五時からだから今なら丁度いいの」

「そう、じゃあ行こうか」

「よかったわ。じゃあもうあんまり時間がないから急ぎましょう」

 私達は学生会館のほうに急ぎ足で向かった。映画はその学生会館の四階のホールであった。

 文化団体連盟の主催だ。この組織は一般の学生達の意識を高めるためと称して、いろんな文化的な催しをしていた。

 急進的な文化人を招いて講演会をしたり、アバンギャルドな劇団の芝居を見せたり、反戦的なフォークシンガーのフェステバルを開いたり・・・。この映画もその文化活動の一環だった。 

 入り口には全共闘のヘルメットをかぶった学生が四、五人立っていた。彼らに学生証を見せると一人百円で入ることができた。

 私はメイの分と二人分、百円玉二個を払って中に入った。入ってすぐ映画は始まった。

 映画は素晴らしかった。ゴダール独特の難解さはあったものの、その時の私にはぴったりと来るものがあった。

 乾いた砂に水が滲み込んでいくようにその映画は私の心の襞深くに滲み込んで行くようだった。

 腐廃しきった現実からの脱出の旅に出ようとするフェルディナンとマリアンヌ。

 愛と裏切りと犯罪。

 そして頭に何本ものダイナマイトを巻いてのフェルディナンの壮絶な自死。何もない静かな地中海の風景だけが残る印象的なラストシーン・・・。

 マリアンヌ演じるアンナ・カリーナは以前から私の大好きな女優の一人だったし、ワンピースに隠された腰のラインはフェルディナンが歌で讃えたように溜め息が出るほど美しかった。

 勿論フェルディナン演じるジャン・ポール・ベルモンドも非常に魅力に満ちていたが。

 映画が終わると外はもう殆ど陽が暮れかけていた。

 私達はそのまま別れて家に帰る気にもならず、映画を観終わったあとの興奮を抱えたまま、なんとなく学生街を歩いていた。

 そしていつの間にか二人は手を握り合っていた。

「いい映画だった。なんかあの感じ、今の俺にはすごく良くわかるな。君はどうだった?」

 私の頭の中はさっき見た映画の感動の余韻でいっぱいだった。

「そうですね、私にもぴったり来ました。あの二人の気持ちは痛いほどよくわかります」

 メイも同じことを感じたようだった。

「ねえ。話は突然変わるけど、君には今付き合っている彼氏はいないの?」

 私は前から少し気になっていたことを訊ねた。

「えっ?そのことは前にも少しお話したことなかったですか?高校生の時には付き合っていた彼氏はいたけど今はいないです。それがどうかしました?」

「いや、確かにその話は以前に一度聞いたことはあるよ。でも今いるのかどうかは分からなかったからさ。でももしいないのだったら俺と付き合ってくれないかな。どう?」

 私はできるだけ軽い調子でそう言った。

「いいですよ。滝口さんが私のことをそう言う風に思っていてくれたのは嬉しいわ。喜んでお付き合いさせていただきます。それよりも滝口さんのほうこそ誰か彼女がいるんじゃないですか?」

「そんな娘はいないよ。ほらこの間会った京子のような女友達はいるけどさ」

「そうですか。よかった。じゃあよろしくお願いします」

「ああ、こちらこそ、よろしくね」

「ウフフ、それはそうと滝口さん、私達もどっかに旅行にいきたいですね?何処か知らない所に、マリアンヌとフェルディナンのように」

「うん。出来たらそうしたいね」

「アルバイトしてお金をためてそうしましょうよ。ね」

 メイは私の右手のシャツの袖を引っ張るようにして言った。私はメイの積極的な態度に少し驚いたが、それは冗談のようには聞こえなかった。

 私達はそのまま学生街を通り抜け、いつの間にか街の中央を流れる大きな川の土手まで来ていた。

 そしてコンクリートでできたその河川敷の土手に座り、すぐ下を流れる水の流れをじっと眺めるともなく眺めていた。

 対岸の道路の照明が川面に映ってきらきらと輝いているのがとても美しかった。 

 
 私の左手は自然にメイの肩を抱いていた。

 〈キスがしたい〉 という強い欲望が内から湧いて来るのを私は感じた。

 私は右手をメイの左頬に持って行き顔をそっとこちらに向けさせた後、自分の顔をゆっくりと近づけ、メイの唇に私の唇を重ねた。

 メイの唇は想像通りの柔らかさで私の唇を優しく迎えてくれた。

 唇を重ねているうちに私の中には更なる強い欲望が生まれ、私の右手はメイの胸に下がっていった。

 ブラウスの上から感じる彼女の乳房は見た目よりずっと豊かだった。メイの息使いが次第に荒くなっていくのが私にははっきりと感じられた。

 私たちの接吻はさらに激しく、お互いに舌を絡めあうようになり、私の右手はブラウスのボタンをひとつはずし、中に侵入していった。

 そしてブラジャーを掻き分けて素肌の乳房に達した。そこにはすべすべして柔らかではあるが少し張りのある豊かな乳房と、ちょうどいいくらいの大きさのツンと尖がった乳首があった。

 私の興奮は最高潮に達しようとしていた。

 ズボンの中の私のペニスははちきれんばかりに膨張し、痛いほどだった。

 私の欲望は更なる行動を要求し始めたが、一方では冷静な理性も働いて、この場所でのこれ以上の行動はなんとか抑える事が出来た。

 私はアパートに行こうとメイを誘ったらメイは意外とあっさりとそれに同意した。

 私たちは河川敷の上を走る道路に出てちょうどいいタイミングで来たタクシーを止め、そこから十五分位の所にある私のアパートに向かった。

 タクシーの中でも私達は運転手の目を盗んでは激しいキスを続けたので、河川敷での興奮をそのまま持続させてアパートにつくことが出来た。

「君の裸が見てみたい」

 アパートに着いてドアを閉めるなり、ベッドまで行くのももどかしいくらいの状態で、激しいキスをひとしきりした後私はメイにそう言った。

 メイは私のその要求を素直に受け入れてくれた。部屋の電気はまだつけていない状態だったが、カーテンを閉めていない窓から差し込む月明かりによってぼんやりと明るかった。

 メイはぎこちない手つきでブラウスのボタンをはずし、スカートを下ろした。

 そして両手を背中に回してブラジャーを外した後、ゆっくりとパンティを脱いだ。そしてひと糸纏わぬ姿になって窓の近くまで行きこちらに向かって立った。

 私はそれをベッドに腰を下ろして眺めていた。

 月明かりに照らされたメイの裸身は光と影で立体感を増し、息も呑むほどの美しさだった。

 品よく盛り上がった乳房と、きゅっと引き締まったウエストから急激に下に広がっていく腰の曲線、臍から下に少し膨らんだ下腹部があり、その下に比較的薄めの繁みがあった。

 なんという美しさだ。

「綺麗だ」

 私は思わずそう叫んでいた。それを聞いたメイは少し恥ずかしそうににっこり笑った。

「今度は後ろを向いてみて」

 私は更なる要求をした。メイは黙ってそれに答えゆっくりと裸身を回転させた。

 後姿もまた前に負けないほど見事な美しさだった。

 背中からヒップにかけてのラインの美しさは思わず絵を描きたくなるほどだった。

 豊かに盛り上がったヒップからスッと伸びた脚のラインもまた美しかった。

 私は何時までもそれを眺めていたかったが、一方で内から湧き上がる強く激しい欲望に促されてベッドを離れ,メイの傍に行きその良くくびれた細いウエストを後ろから抱きしめた。

 メイは右手を伸ばして私の首の後ろに巻きつけてきた。

「ありがとう。君の身体は本当に綺麗だ。俺はこんな綺麗なものを今まで見たことがなかった。本当にありがとう」

 メイを強く抱しめながら私は耳元でそうささやいた。

 メイは恥ずかしそうに黙って身を回転させながら私の首に巻いた手をなおのこときつく締め付ける。

 私達はそのままベッドに雪崩れ込み、激しく抱擁しあった。

 私はメイのその美しい裸身を手と唇で愛撫し続けた。メイもまた私のその愛撫に激しく反応した。

 私の興奮が頂点に達しようとした時、私はメイの中に入っていこうとした。だがメイは何故かそれだけはあくまで拒みつづけるのだ。

「どうして?こんなに好きなのに、どうして駄目なの」

「ごめんなさい。でもどうしても駄目なの。まだ気持ちの整理ができてないの。だからこれだけはお願いだから我慢して」

 彼女はそう言って、その代わりその白くてしなやかな指を使って私を絶頂まで導いてくれた。

 私は少し不満が残ったもののそれなりに満足した。(第一章おわり 第二章につづく)

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2008年5月20日 (火)

「あの白く乾いた季節」-6

五 刑場

 私は夜明け前の荒野に独り立っている。まだかなり酒が残っている頭をふらふらさせながら・・・。

 あたりは霧がかかっているように妙に白っぽかった。

 よく見ると、葉を落とした白っぽい枯れ木があちらこちらに立っている。何か戦場跡のような気もする。

 霧のように見えたものはもしかしたら爆弾の煙かもしれない。

 しかもよく見ると独りだと思っていた私の前には、たくさんの囚人服を着た男達が列を作って並んでいるし、周りは見物人らしき人達で埋まっている。

 どうやら私は処刑の順番を待っている死刑囚であるらしい。

 私の前には五十人ほどの囚人がおり、後ろにも二十人くらいが並んでいる。

 二、三十メートル先に小高い丘があり、その頂上にひときわ大きくて高い枯れ木が立っていて、そこに何本かの太いロープが太い木の枝から垂れ下がっている。

 あれが私達囚人の首を絞めるロープであるらしいことも次第に明らかになってきた。

 それにしても何故私が囚人で、何故処刑されなくてはならないのか。

 二日酔いの私にはどんなに頭をめぐらせてみても判らない。判っていることは後三十分もしないうちに、私はあのロープに首を吊るされて死ぬということだけだ。

 時間が経過するに従って、周りの見物人の声が次第に高まってくる。それも良く聞くと私に対する非難の声が殆どのようだ。

 私は視線を見物人のほうに向けた。するとそこには嘗て私が出会った事のある全ての人がいるように思われた。

 小学時代、中学時代の遊び仲間から先生は勿論、近所のおばさん、親戚のおじさん、二年前に死んだはずの祖父、そして勿論母の顔もそこにはあった。

 それらの顔の全てが私に向かって、憎しみと嫌悪の感情をむき出しにして何かを叫んでいる。私はそれらの叫び声に改めて耳を傾けた。

「お前はひどい奴だ!」

「そんな奴だとは思わなかったよ!」

「何て奴だ!あんなことするなんて!お前は人間のクズだ!」

 とか言って叫んでいる。私は一体何をしたというのだろう。

 そういえば昨夜ひどく酔っ払って誰かと喧嘩になったような気もするが、よくは思い出せない。どうしても思い出せない。

 私は見物人の中の母の方に近づき、私は昨夜いったい何をしたのだと聞いてみた。

「お前あれを憶えてないのかい。だからいつも言ってたじゃないか。お前は昔から酒癖が悪いから、よほど飲み過ぎないように気をつけないといけないよと。あれほど言っていたのに、お前は私の言いつけを守らなかった。

 だからこういうことになってしまったんだよ。でももう遅い。いくらお母さんでも、もうお前を助けることはできない。可哀想だけどね」

「だから俺は一体何をしたというんだよ。それを教えてくれよ」

「それは言えない。それだけは口が裂けても言えないよ」

 母はそう繰り返すばかりだった。私は諦めて囚人達の列に戻った。

 私は昨夜やはり余程ひどいことをしてしまったのだろう。それならそれでやったことの罰は受けねばならない。私は覚悟を決めた。

 前にいる囚人の数が次第に減ってきて、私の処刑の番が近づいてくるに従い、周囲の私への非難の声も一層高まっていった。

 そしていよいよ私の番になった。私の前に先端が輪になった太いロープがするすると下りてきた。

 私の両手は後ろで縛られており、もうどうすることもできない。

 〈いよいよ俺にも死ぬ時が来たか。短い人生だったけれどしょうがないか。もう少し生きていい絵が描きたかったがな〉。

 私はそんなことを考えながら死刑の執行を待った。

 一人の男が私のそばにやってきて、前にぶら下がっているロープの輪を私の首にかけた。そしてそれが少し引っ張られて私の首にぴったり食い込む状態になった。

「これであんたも最後になるが、最後に何か言い残すことはあるか」

 五十前くらいの人のよさそうな死刑執行人の男が私に尋ねてきた。

 〈この世で最後に言い残す言葉か、それは俺にとっては何なのだろう。俺にはどんな言葉があるのだろうか〉 一瞬のうちに私はそう考えた。

 そして私には言い残すべき言葉が何ひとつないのに気がついた。

「何もないです」

 私は男にそう答えた。

「えっ、何もない?変わった奴だな、あんたは。死ぬ前に何も言い残す言葉もないのか。それでは生きてこなかったのと同じじゃないか。でもないならしょうがないな。そろそろ執行するよ」

 そういって男は後ろのほうに消えて行った。

 〈生きてこなかったのと同じか。そうかも知れないな。俺はホントに生きていたのだろうか、それともあれは夢だったのか、今ではどちらかわからなくなってしまった・・・〉

 いきなりロープが引かれ、私は宙吊りの状態になった。ロープがグィッと私の首を締め付ける。

 だが私はまだ生きている・・・生きている・・・まだ生きている・・・。

 そこで私は夢から覚めた。私の首筋はぐっしょりと汗でぬれていた。(つづく)

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2008年5月19日 (月)

「あの白く乾いた季節」-5

四 白いキャンバス

 個展が終わった後、私の生活は目標を失ってしまったことで、心の中にぽっかりと大きな空白ができそれをどうすることもできず、自堕落で無気力な生活に身を任せていた。

 毎日昼過ぎに起きて、ぶらぶらと大学のある街まで出て行くには行くが、授業に出る気にもならず、学生会館の別室にあるクラブのボックスに顔を出し、私が最も軽蔑し先日メイも非難していたサロン派の連中と当たり障りのないどうでもいい話をしてすごしたり、近くのパチンコホールでパチンコをしたりして時間を潰していた。

 夜になるとサロン派の中でも比較的気の合う奴を誘って酒を飲みに行き、馬鹿騒ぎをしたり、そこに気に入らない先輩等がいたりすると絡んだり口喧嘩をしたりした。

 私はその頃は結構酒癖が悪かったようだ。夜中遅くにアパートに帰るか、帰れないときは誰かのアパートに泊まったりしていた。とにかく酒を飲まなければ眠れない毎日だった。

 その癖心の中には何か得体の知れない空白感と焦燥感があった。

 こんな生活をしていたらいけない、こんな生活をしていたら俺は駄目になる、という苛立ちに苦しめられていた。

 俺はいったい何をしにこの世に生まれてきたのか、俺は何のために生きているのか、と言う自問自答から抜け出せなかった。

 そして自堕落な生活からもまた抜け出せずにいた。

 苛立ちの原因は判っていた。それは個展で全ての作品を並べ終えた時に感じた、あの訳の判らない羞恥心であり、もっと言えば個展が終った後やった打ち上げ会での山本のある言葉からだった。

 山本はかなり酔っ払った後、いつものように話は芸術論になりこう言ったのだ。

「滝口、お前はまだ何も描いてない真っ白いキャンバスを前にしてじっくりと眺めたことがあるか」

「それはないですねえ」

「一度ゆっくりと時間をかけて眺めてみればいいよ。きれいだよ、本当に。そしてこの真っ白な画面を絵の具で汚していく権利が自分にはあるのかどうか考えてみたらいい。

 真っ白いキャンバスよりきれいなものを描く力が自分にあるかどうかを考えてみな。誤解しちゃあ駄目だよ。俺は何もお前にはそんな力がないと言っているのではない。一般論として言ってるんだからね。

 それで俺がいいたいことは真っ白いキャンバスよりきれいものが描ける才能を持った奴だけが絵を描く権利があるということなんだ。音楽でも同じだよ。

 静寂よりいい音を出せる才能を与えられた奴だけが静寂を破る権利があるということだ。殆どの作品はそうじゃないんだけどね。そんなのは単なるガラクタであり、雑音に過ぎないというものが、世間では芸術と呼ばれている作品の殆どだ。

 でもごく小数ではあるが本当に芸術と呼んでも良い作品を生み出す人達が存在していることもまた確かだ。この世界ではそういう選ばれた少数の人間だけが芸術を創る権利があり、世の中の芸術なんてそれで充分なんだよ。

 そうじゃない奴がいくらピーチク、パーチクと騒いでも誰も耳を傾けたりなんかしないんだよ。選ばれた小数の人間から外れた奴はただ黙って大人しく生きていけばいいんだ。才能もないのに何かを表現しようなんておこがましいということだ」

「それは僕のことを言っているんですか」

 私は少しむっとした表情でそう聞き返した。

「いやいやそういうことじゃあないよ。さっきも言ったけどただ一般論として言ってるだけだ。だから絵に関して言えばマルセル・ジュシャンが既製品の便器に《泉》という題名をつけて美術館に展示した段階で終わってしまったんだよ。その後は何をしてもマルセル・ジュシャンの二番煎じにしかならないんだよ」

 私の気を悪くしたような表情をみて、山本はすぐにそう弁明した。

「それはあなたの勝手な言い分よ。何もしないことに対する言い訳よ。どんな人間にでも自分を表現する権利くらいは与えられているはずだわ」

 つかさず横から京子が反論した。

「確かに表現する権利は誰にでも与えられているかもしれない。だから俺が言いたいのは別に自分を表現することはかまわないが、その前に他人が耳を傾けてくれるほどのものを自分が持っているかどうかだ。

 またそういう厳しい気持ちで芸術と言うものに立ち向かっているかどうか、あるいはそういう姿勢で生きているかどうか、と言うことを自らに問いかけているかどうかということだ」

 山本はそう言った。

「山本さんが言おうとしていることは確かに僕にもよく分かります。しかしその作品が芸術と呼ぶに値するかどうかを評価するのは自分ではなく他人ではないでしょうか。

 だとしたら表現したいやつは素直に表現すればいいのではないですか。例えそれが山本さんの言うガラクタであったとしても」

 私はそのように反論した。

「そうよ、そうよ。私は滝口君の意見に賛成よ。あなたは芸術というものを変に観念的に難しく考えすぎてるのよ」

 京子はそう言って私の言葉に賛同してくれた。

 というような感じでその場は暫くその話題で盛り上がったが、私には妙に山本のその時の言葉がいつまでも心に残っていた。

 つい先日個展会場で感じた恥ずかしさの原因がその時やっと突き止められたような気がしたからだ。

 〈そうなんだ。俺があの時感じた恥ずかしさはそれだったのだ。大した才能もないくせに絵なんか描いて、自分を表現しようとするが、お前はいったい偉そうに何を他人に言いたいというのだ。

 この世の殆どの人は己の力をわきまえて、黙っていろんなことに耐えながら生きていると言うのに、そんな黙する人達に対して敢えて訴えなければならない何かがお前にはあるというのか〉

 そういった自問自答がその後私の頭から消え去らなかった。そしてそれが私を苦しめた。

 取り敢えず暫く絵を描くのはやめよう、どうしても描きたい、と言う欲望が自分の中から自然に湧き出て来る迄は、というのがその時にようやく到達した私の結論だった。(つづく)

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「あの白く乾いた季節」-4

三 地下ギャラリー

 六月の下旬私は学生会館の地下ギャラリーで個展を開いた。

 数人の友人が作品の展示を手伝ってくれた。作品は全部で三十数点あった。大して広くはないスペースだったのでちょうどいい数だった。

 私が九ヶ月近くかけて仕上げた作品が遂に公の場に並べられた。

 並べ終わってひと段落し、改めて会場全体を見渡したとき、私はそれまで全く予期しなかった羞恥心で一杯になっている自分自身に気がついた。

 今ここに並べられているものは全て私の内部から生み出された、いわば私の子供のようなもの、あるいは私の恥部のようなものではないか。それが今、白日の下にさらけ出されている。

 そんな自分の恥部を見られているような恥ずかしさで一杯になった。

 私の作品は決して感情を露骨に表現するスタイルではなく、むしろ全くその反対でクールに押さえ込んだスタイルが好みだったし、他人から見てもそう見えるはずなのだが、それでもこれだけの恥ずかしさを感じるというのはどういうことなのだろう。

 こんなことやるんじゃなかった、と言うのがその時の正直な気持ちだった。

 それでも個展自体の評判は決して悪くはなかった。

 観にくるのは学生会館の中と言うこともあって殆どが学生で、たまに事務所や生協の職員とか教授などが来るくらいではあったが、観た人の殆どは結構素晴らしいと評価してくれた。

 中には個展が終われば分けてくれないかと真剣に頼み込んでくる人もいた。

 個展はそこで月曜日から土曜日迄の一週間開いていた。

 メイがそこに顔を出したのは最終日の前日、つまり金曜日の夕方だった。その日は朝からシトシトと梅雨特有のいやな雨が降り続き、夕方になってもやむ気配はなかった。

 湿気がこのギャラリーにまで入り込んできて蒸し暑かった。そろそろ閉めようかなと思っている時

「滝口さん、こんにちは」

 受付のいすに座って小説を読んでいた私の頭の上からいきなり聞きなれない女性の声が聞こえてきた。

 驚いて目を上に上げるとそこにメイが立っていた。一瞬誰だかわからなかったがすぐ思い出した。

 私のその一瞬の戸惑いを敏感に感じ取った彼女は次の言葉を即座に言った。

「水嶋です。絵画クラブの。憶えてもらっているかどうかわかりませんが」

「憶えているよ、君はけっこう印象に残っていたからね」

「そうですか。ありがとうございます。ところで滝口さん、あれからぜんぜんボックスにも顔を出さないから、どうしたのかなと思っていたんですけど、こんなところで個展していらしたんですね。

 私全然気がつかなくて、さっきはじめて気がつきました。すみません。ちょっと観せてもらっていいですか」

「いいよ。ゆっくり観て行って」

 彼女は右手に持っていた柄物の傘を入り口の横にあるアルミ製の傘立てに入れた後、奥に入って行った。

 私はさっきまで読んでいた文庫本の小説に視線をいったん戻したものの、彼女の動きが気になり、頭はそのままで視線だけを彼女の後姿に移した。

 まるで古本屋の親父が客を監視するためにそうするように・・・。

 メイは真剣に私の作品を見ていて、私の視線には気付かないようだった。

 少し小柄だがバランスのとれたいいスタイルをしている。栗色に染めた長い髪とブラックジーンズに紫の半袖のTシャツも良く似合っている。

 そして何よりも細くくびれたウエストからヒップにかけてのラインが素適だった。

 全ての作品を見終わるのに十五分くらいかかっただろうか。メイは私が座っている受付の席まで戻ってきた。

「滝口さん、ありがとうございました。私こういう作品は大好きです」

 メイがそう言ったので私は「ありがとう」と素直にお礼を言った。

「あのう、ちょっと相談に乗ってほしいことがあるのですがいいですか」

 メイは少し遠慮勝ちにそう言った。

「相談?ああいいよ。そろそろここも閉めようかなと思っていたところだったから。だったらちょっと待っててくれないか。ここではなんだからどっかサテンにでも行かない。どう?」

「勿論いいですよ、私が誘ったんですから」

 メイはそう言ってギャラリーを出た所で待っていた。

 我々は近くの〈ルーシー〉と言う喫茶店に行った。

 この店はBGMにビートルズしかかけないことで有名で、ビートルズを愛してやまない連中には人気がある店だった。

 店の名前の〈ルーシー〉もビートルズの〈ルーシー・イン・ザ・スカイ〉という題名の歌から取ったものと思われる。

 店には幸いクラブの連中も顔見知りの奴もいなかった。我々は奥の比較的落ち着ける場所に席をとることができた。

 BGMには二枚組みのホワイトアルバムから〈ホワイ・マイギター・ジェントリー・ウィープ〉がかかっていた。

 ジョージ・ハリソンの泣くようなリードギターが魅力の曲だ。私はコーラを、彼女はレモンティを注文したあと早速相談の中身に入った。

「ところで相談て何なの?」

「そうですね。私この頃クラブに行っていて思うんですけど、あそこにいつもいる人達って、ただゴロゴロしているだけで、ちっとも絵なんて描いてないみたいでしょ。

 何のためにあそこにいるのか分かんない感じじゃないですか」

メイはまた少し言いにくそうにそう切り出した。

「まあそうだね。ボックスにいる連中はそういう奴が多いことは確かだね。でもそれがどうかしたの?」

「ええ。なんて言ったら良いのかよく分かんないですが、私なんかが行っても何か居場所がないと言うか・・・。

 だから私もホントにあそこにずっといていていいのかしらって思っちゃうんです。さっき滝口さんの作品見ていて余計にそう思いました。

 あのクラブにもこうやって真面目にきちっと絵を描いている人もいるというのに、あそこにはそういう人全然いないんだもの。だからもうクラブに行くのはやめようかな、と最近思ったりしていたんです」

「そういうことか。確かに大学封鎖が解除されてからは、ああいう連中が幅を利かせだしたってことはあるみたいだね。

 ボックスは完全にサロン化してしまっているような感じは俺もずっとしていた。だから俺なんかも最近は全然行きたくないし、ここ暫くは行ってないんだ。

 でもアトリエに行けば、結構真剣に絵を描いている奴も何人かだけどいるんだよ」

「そうですね。それは私も知っています。でもあそこはあそこでなにか私なんかが入っていけるような雰囲気でもないみたいだし」

「アッハッハ、そんなことないよ。皆いい奴ばかりだよ。ちょっと癖があってとっつきにくいところは確かにあると思うけどね」

「そうですか、私なんかには何か怖い感じがするわ。でもこれからはそのアトリエに行けばいいかしら」

「そうした方がいいと思うよ。ボックスなんかに行くよりはその方がずっといいと思うよ」

「そうですか。じゃあこれからはそうすることにしようかな」

 我々はそれからもいろんなことを話した。

 メイがどこに住んでいるのかとか、高校時代に付き合っていた彼氏がいたが、大学で東京に行ってしまったのでもう別れてしまったとか、そんないろんな話をしてその日は別れた。

 別れる前にメイは明日の最終日に片付けを手伝いにきますという約束もしてくれた。

 翌日の最終日の夕方、展示を手伝ってくれた連中にメイも加わって片付けはすぐに終った。

 山本のセリカに作品を乗せて私のアパートに一旦持って帰った後、アパートの近くの居酒屋で簡単な打ち上げをした。メンバーはメイのほかに三人いた。

 関口京子は高校時代からの女友達で、その街にある別の女子大に通っている。

 高校時代に同じ絵画クラブに所属していた関係で、その街に来てからも時々会っては一緒に食事をしたり、酒を飲みにいったり、映画を観たりなどしてきた仲で、いろんな悩みをお互いに相談できる貴重な女友達だった。

 大学に入って間もないころ、京子の誘いで生まれてはじめて映画の試写会というものに行ったのだが、それがダスティン・ホフマンの《卒業》だった。

 私は子供の頃から映画好きで、高校時代も私の出身の地方都市で毎週のように新しい映画を見ていたが、この映画は前の場面が終わらないうちに次の場面の声が聞こえてきたりする新しい手法が、その頃の私にはものすごく新鮮で衝撃的に映ったものだった。

 またその映画の主題歌などを歌っていた《サイモン&ガーハンクル》というデュエットの歌も非常に新鮮で印象的だったのをよく憶えている。

 このグループはこの映画一本で一躍世界のトップ・シンガーとなったほどだ。

 京子は見かけこそ華奢で繊細なように見えるが、見かけによらず案外とのんびりした穏やかな性格で、付き合っていても疲れないタイプなので、私には気楽な友達だった。

 山本功三は京子の恋人で、京子の通う女子大の近くにある芸大の院生で彫刻を専攻しているらしい。

 彼と私は勿論京子を通じて知り合った。山本はちょっと癖のある性格ではあるが、私とは何故か気が合い、それは向こうの方も同じらしく何かと私を可愛がってくれた。

 院生とはいえ実態はただ社会に出て働きたくないという理由で大学に残っているだけで、決して優等生と言う訳でないことは皆が知っている事実だった。

 村野美加は山本と同じ芸大の、日本画を専攻する学生で、非常に真面目で物静かな性格なので、何故山本のようなある意味では出鱈目な男と友達関係でいるのかいまだに私にはわからない。

 恐らく山本と言うよりは同じ歳である京子と気が合ったのではないかと私は思っている。

 山本にしろ美加にしろ、私は京子を通じて何回も一緒に飲みにいった仲なので、すっかり友達関係になっていた。

 そこに私も実質的には昨日始めて知り合ったメイが加わったので、はじめは少しぎこちない雰囲気だったが、山本の開けっぴろげな性格も功を奏したのか、次第に打ち解け始め、会の終わり頃にはもう何年も付き合ってきた友達のような雰囲気になっていた。

 特に京子はメイを気に入ったみたいだった。勿論人一倍女好きな山本がメイを気に入らないはずもなかった。(つづく)

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2008年5月17日 (土)

「あの白く乾いた季節」-3

二 美術クラブ

 私がメイに始めて出逢ったのは今年の四月、私が属していた絵画クラブの新入生歓迎コンパの席だった。

 彼女は十何人かいた新入生の中の一人で、十人近くいた女性の中では一番私の印象に残っていた。

 少し小柄で顔も童顔なので女性というよりも、どちらかというと少女といった方が近い感じだった。

 しかし単なる可愛いと言うのとも少し違っていて、可愛さの中にも芯の強さみたいなものは感じられたし、ちょっとした視線の動きとかの中に少しいたずらっぽい何か、もっと正確に言えば小悪魔的な魅力を少し感じたのも憶えている。

 ただその時は一言も言葉は交わさなかったので、そのうち私の記憶の中では埋もれたままになっていた。

 その頃の私は絵画クラブにも殆ど行ってなく、その後彼女と顔を合わす機会もなかったのだ。

 その前の年の五月、大学は全共闘によって全学封鎖されていたが、その年の三月機動隊の導入により約一年ぶりに封鎖は解除され、キャンバスには学生達が久し振りに戻ってきていた。

 四月から講義も再開されたが、社会学の専攻だった私の興味は、その頃には講義よりも元々好きだった絵の方に完全に移ってしまっていた。

 私はいまさら講義に出る気にもならず、アパートの部屋に閉じこもったままただひたすら絵を描き続けていた。

 私は昔から何でもそうだったが、何かをスタートするまでにはある一定の時間が必要だったが、一旦エンジンがかかるとかなりなスピードで驀進するタイプだった。

 その時もやはりそう言う感じだった。

 それは何かに取り憑かれたかのように半年前に始まった。

 大学が全共闘により全学封鎖されている間も、クラブのボックスだけは開いていたけれど、次第に過激派学生たちのアジト化していったこともあって、足が除々に遠のいていったのだ。

 クラブは大きく三つのグループに分かれていた。

 一つ目はいつもボックスにだらだらといて、目当ての女性等が来るのを待っていて、姿を現すとすぐに喫茶店などに巧みに誘って行ってしまう、いわゆるサロン派タイプ。

 彼らは夕方になるとマージャン仲間を誘うか、飲みに行く仲間を探してどこかに消えてしまう。

 格好だけはヒッピーのようなファッションをしていて、いかにも芸術家ぶってはいるが、ただただ女の子目当てにクラブに入ってきているだけで、彼らが絵を描いている姿は一度も見たことがない。

 二つ目は革命派のグループ。

 彼らはサロン派ほどボックスには顔を出さないが、ミーティングとか合宿などがあると必ず顔を出し、得意の弁舌で芸術論を語り、最後には必ず革命論に発展する。

 彼らも決して絵画などは描かず、どうしても作品を創らなければならない時は、アバンギャルドと称してはいるが実は単なるガラクタのようなものを作っていた。

 彼らは文化団体連盟(略して文連という)の委員をしていて、その文連は全共闘の下部組織のようになっていた。

 全共闘は後に赤軍派の元になった社学同(社会主義学生同盟)という急進派のセクトに殆ど牛耳られていた為、我々のクラブにも社学同の影が色濃く根付いていた。

 彼らはクラブを通じて自分たちの勢力を増やすように義務付けられているようだった。

 三つ目が少数ではあるが絵と真剣に対峙している正統派のグループ。

 このクラブは明治時代に創設されたものでかなり長い伝統があり、美術を専門に学ぶ大学ではないわりには美術界で活躍した人も多く輩出しており、現在でも本格的に美術界で活躍しているOBが何人かいて、単なる絵画クラブでは終わらない伝統のようなものがあった。

 その流れを受け継いでいるのがこのグループで、彼らはボックスではなく、同じフロアーにあるアトリエを拠点にしていた。

 私も小学の高学年くらいから担当教師の影響もあって、政治にはかなり興味を持っていたので、大学に入学した当初は学生運動にも多少興味があったので、第二のグループとも親しくし、街頭デモにも何回か加わったりしたこともあったが、学生運動の内実がわかってくるにしたがって次第に彼らとは距離を置くようになっていった。

 それは彼らが当然のことながら私の大嫌いな集団心理のようなもの(セクト主義)を持っていることが一番の原因だったように思う。

 上部の人間が言うことはすべて正しくて、それと少しでも違ったことを言う奴がいると、それは日和見主義だなどと決め付けて、レッテルを貼ってのけものにしてしまう。それが私にはたまらなく嫌だった。

 またその頃はやっていた革命的な言葉を恥ずかしげもなく使う所も私とは相容れないものがあった。

 自分の言葉でしゃべっていないと私は強烈に感じたのだ。

 組織の上層部からの受け売りか、もしくは本などを読んでその作家の言葉を自分の中で消化しないまま出しているという印象だった。

 しかも独善的で狭量で、革命を叫びながら、実は自分たちが所属している組織の言うことには絶対的に疑問を持たない彼らとは、どうしても行動を供にはできないと感じてしまった。

 私は次第に第三のグループに入っていった。

 このグループはグループといっても徒党を組むわけではなかったし、みんながそれぞれ好きな絵を自分勝手に描いているだけなので、私の体質にも合っていた。

 しかしクラブが次第に学生活動家達に占拠されていくにしたがって、私の足もアトリエから遠のいていき、私はアパートの部屋に独り籠るようになっていったのだ。

 アパートで絵を描き出して半年が過ぎたとき、私の作品は二十点を超えた。

 それまでは考えたことも無かった個展をしてみたい、個展をしてこの作品をみんなに見てもらいたいと思うようになったのはその頃だった。

 しかし街の画廊を借りるほどのお金もなかったので、学生会館の地下ギャラリーを借りることにした。

 その頃ちょうど封鎖も解かれ、大学の職員たちもキャンバスに戻ってきていたので話はスムースに進んだ。(つづく)

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2008年5月16日 (金)

「あの白く乾いた季節」-2

第一章  一九七〇年七月       

【ジャズ喫茶の片隅で 】

 煙草の煙の立ち込める薄暗いジャズ喫茶の片隅で、私は一人の少女と肩を寄せ合って座っていた。

 私は二十歳で、少女は十八歳だった。1970年の暑い夏のことだった。 

 店内は夏だと言うのに冷房の効きすぎで、半袖のTシャツにジーパンの私達には少し寒いくらいだった。

 触れている少女の肩から伝わってくる体温の暖かさだけが、私には唯一のぬくもりだった。

 私達はガラガラの店の中で震えるようにしてくっつきあい、お互いの肩を決して離そうとはしなかった 

 店は私達のいる大学の学生街のはずれ辺りにあり、学校の講義がある時には学生達で賑わっていたのだが、夏休みに入って一週間がたったその頃には、もうみんな田舎に帰ってしまったか、どこか旅行にでも出かけてしまったのか、客の数も私達の他にはほんの数人しかいなかった。  

 少女の名前はメイといった。本名ではなくニック・ネームだ。何故メイなのか以前に一度聞いたことがある。

 「五月生まれだから、ただそれだけのことよ。中学生の時からそう呼ばれているので面倒臭いからそれで通しているの。それにこのニック・ネーム、私は結構気に入っているし」   と言うことだったのでそれ以上は聞かなかった。

 本名は水嶋慶子という。  

 私達がその店に入ってかれこれ一時間近くたつが、私達はその間一言も喋らなかった。

 別に気まずい雰囲気があったわけではなく言葉が必要でないほど心が落ち着いていたのだ。

 好きな音楽と好きな女が私を包んでくれている。それ以上に何が必要と言うのだろう。

 音楽がフレディ・ハバードのトランペットから静かなピアノ・ソロに変わった。

「これ、私がリクエストした曲です。聴いたことありますか」  唐突にメイが言った。

 メイは何時の間にリクエストをしたのか。そういえば少し前にトイレに行くと席を離れたときに、ついでにリクエストしたのかも知れないと私は思った。

「知らない。誰の曲?」 という私の質問に

「ニーナ・シモンのピアノ・ソロ。私、高校生のときからずっと好きだった曲です」 メイは嬉しそうな表情でそう答えた。 

 その言葉は田舎者の私にとっては、高校生の時からこんなレコードを聞いていたというメイが、ちょっと自分とは違う環境の中で育ったのだな、という思いを抱かせたものだった。 

 西側に面した窓の分厚いカーテンの僅かな隙間から入ってくる陽の光が、こころなしか少し弱まったようだった。

 私はその光の変化から、夕方ももうかなり遅い時間になっていることを感じた。

 その柔らかな弱い日差しが、静かなピアノソロと相俟って、棘々した日頃の私の心をゆっくりと融かし始め、私の心は久しぶりに物哀しいような、穏やかな優しさに包まれ始めているのをはっきりと意識できた。

 いつもの訳の分らない苛立ちや焦燥感が次第に薄れ、久しく感じなかった世界に対する優しさのようなものが私の心の中にゆっくりと、しかし確実に戻って来るのを感じた。

 左肩にメイの暖かい体温を感じながら・・・。 (つづく)

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